【SSSW コラム】 ”想い”を事業にしていく力
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11月21日(木)のランチタイムに「想いを事業にする力」というテーマで、オンラインセミナーを開催しました。
ゲストは、登録者数10万人超のYouTubeチャンネルを運営し、株式会社ステアーズの代表取締役でありクリエイティブ・ディレクターの寺田真弓さん。「想い」をどのようにビジネスとして形にしていくかを寺田さん自身の経験をもとにお聞きしました。
寺田真弓さんは、長野県長野市のご出身で、2021年にUターンし、生まれつき障害のある夫と4歳の息子と暮らしています。2018年からYouTubeチャンネル「寺田家TV」を運営し、登録者数は10万人を超えたこともある寺田さん。また、YouTube運営の他に、障害や福祉を軸にSNSコンサル、動画制作、イベント運営などの事業を展開しており、最近では「みんきゅ〜プロジェクト」を立ち上げ、ユニバーサルツーリズムの普及に取り組んでいます。今回のオンラインセミナーでは、夫のユースケさんとの出会いや、47都道府県をヒッチハイクで回る企画、YouTubeチャンネルの運営、事業の立ち上げなどについて詳しくお話をお聞きすることができました。
特に、チーム作りや人を巻き込む方法について、ご自身の経験を基に具体的ですぐに実践できそうなお話しをして下さったのは、印象的でした。想いが強いほど「自分でやらなきゃ」「自分でやりたい」と思いがちですが、チームのメンバーに任せてみたり、「どうしたらいいかな?」と相談を投げかけることによって、自分ごと化してもらったりなど、実践的な内容をお聞きすることができました。寺田さんがご参加された「信州ベンチャーサミット※」についてもお話があり、そのときの様子を知る参加者からも「想いが伝わってきたピッチだった」とコメントがありました。
また、現在実施されているクラウドファンディングを通じて「みんきゅ〜プロジェクト」の資金調達を行っていることや、五カ国語で書かれた絵本「ほんとうにだいじょうぶ?」の制作秘話も伺いました。絵本もクラウドファンディングのリターンとしてご用意されていますので、ぜひウェブサイトをのぞいてみてください。
最後には、ご自身の経験を通じて、想いを事業にすることの重要性や、人生は一度きりであるからこそ大事にしたいというメッセージをいただきました。
信州スタートアップステーションウーマン(SOU)は、起業・創業にハードルを感じている方や、事業アイディアのブラッシュアップしたい方など起業に関する相談をはじめ、仕事と家庭・子育てとのバランスで今後の働き方に悩んでいる方など、幅広く女性を支援をしています。個別相談をご希望の方は、Facebook/Instagram、またはメール(info.ssswomen@gmail.com)までお問い合わせください。
次回は1月にオンラインでのトークイベントを予定しております。ぜひチェックしてみてください!
※信州ベンチャーサミット:信州スタートアップステーションが開催するベンチャー企業を対象としたピッチイベント。
詳細はこちら
職業、遊び人。どこにでも行ける旅人が、なぜ長野をベースに選んだのか【後編】先輩起業家インタビューvol.10
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「遊んで暮らそうといざ無職になってみたら、無職って思ったより暇だったんだよね。当時俺は38歳で、周りに同じペースで遊べる同年代もいなかった。じゃあ仕事した方が楽しいかもしれないなと、次は何がしたいかなと考えて、ゲストハウスを作ることに」
そう語るのは、長野市善光寺表参道沿いにあるカフェ、バー、レストランを併設したゲストハウス「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」、異世界サウナ「SAMBO SAUN」を経営する辻和之(つじかずゆき)さん、通称サンボさん。
インタビュー後編では、オープン10年でゲストハウスへ業態を変えた理由や、長野を拠点としている理由、現在の働き方・暮らし方について聞きました。
<お話を聞いた人>
合同会社GIANT KILLING 代表辻和之さん
1976年生まれ、大阪出身。18歳からフリースキーを始め、夏は大阪、冬は長野の雪山に篭る2拠点生活を約10年間行う。2005年に長野市に移住し、タイ料理とアジアン雑貨の店「Asian Night Market」をオープン。2015年にはカフェバーを併設した「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」としてリニューアルオープン。2023年には店内の一部を改装し、異世界サウナ「SAMBO SAUN」をはじめる。
オープンから10年の節目で無職になるも、「仕事をした方が楽しい」と気がついた
――インタビュー前編では、長野でタイ料理とアジアン雑貨のお店「Asian Night Market」を始めるまでのお話を聞きました。現在はゲストハウスを運営されていますが、業態を変えたのはどうしてですか?
「Asian Night Market」は、オープン当時の俺が作りたいと思って作った店だったけど、オープンから時間が経てば立つほど自分の中では「かっこいい店」じゃなくなっていて。お客さんからはよく「内装がすごい」と言ってもらっていたんだけど、自分はそうは思えなくなってきた。それがずっとひっかかっていて。
――自分にとって「かっこいい」かが大事だと。
最初の店をDIYで作った関係で、東京のゲストハウス「Nui.」の内装工事を手伝いに行ったり、いろんな建物を見たりする中で、「Aian Night Marketはもう全然俺の中のベストじゃない」と思っていたんだよね。
ちょうどその頃にスタッフが途切れて、立ち上げ当初と違って資金も十分にあったから、しばらくは遊んで暮らして、お金がなくなったらまた新しいことでもしようかなと思って10年目のタイミングで一度店を閉めました。
――潔い決断ですね。
でも、いざ無職になってみたら無職って思ったよりも暇で。当時俺は38歳で、周りに同じペースで遊べる同年代もいなかった。「じゃあ仕事した方が楽しいかもしれないな」と思って、次に何がしたいか考えて、ゲストハウスを作ることにしました。
実は、もともと長野に来た頃からゲストハウスを作りたい気持ちはあったんだけど、当時長野市にはバックパッカーもほとんどいなかったし、ゲストハウスがメジャーな商売ではなくて。でも10年の間に長野にも観光客が増えたしゲストハウスも出来てきた。
でも、自分みたいなハードな旅人が泊まるような宿はなかったから、今度は長野にいながら旅気分でいられるような場所を作ろうと「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」(以下、Pise)をオープンしました。前やっていた店と同じようなことしようと思わなかったのは、世の中の流れが変わってきたことも大きいね。
野生の勘に従って業態を大きく転換。時代の流れに乗ることが出来た
――世の中の流れというのは?
「Asian Night Market」をオープンした頃は、まだ日本が豊かで、タイは物価が安かったんだよね。だから、タイで安く買ってきたものを日本で高く売ることが出来た。でも、10年の間にタイはめちゃくちゃ発展して、逆に日本は全然発展しなかった。毎年タイに行くたびに、成長や変化を見続けてきて、このまま同じビジネスモデルを続けるには厳しくなるだろうなという予感があった。
実際に、今はもうほとんど物価の差がないし、逆に日本が「物価が安い国」になって、バックパッカーも含めた海外からの観光客が一気に増えたよね。コロナ禍は想定外だったけど、最近はもうかなり海外からのお客さんが戻ってきた。海外からくる人にお金を落としてもらった方が、事業として先に続くんじゃ無いかって。
――お金の流れを転換したと。
そういうこと。仕入れ先も、相手するお客さんの客層も完全に変えました。「Pise」をオープンした頃は、完全に野生の勘で決めたことだったから裏付けはなにもなかったけど、あれから10年が経ってやっぱりそうなったなと思ってる。
――サウナの事業を始めたのはどうしてですか?
コロナの間、「Pise」にはバックパッカーより日本人のお客さんや長野県内のお客さんが増えて。そういう若い子たちによく『サウナ作ってください!』と言われてはいたんだけど、俺は自分が好きじゃないものは作れないから断ってた。
当時の俺にとってのサウナのイメージは「健康のためにみんな黙って熱さに耐える場所」で、何がいいのかわからなかった。でも、2022年の秋にアウトドアフェスの手伝いに行ったらサウナブースがあったから、試しに入ってみたんですよ、そうしたら、みんな飲みながら楽しく話をしていて、いい汗が出てきたら外に出て、夜風を浴びながら外気浴。これがすごく良くて。
サウナに入っただけで、一緒にいた人たちとすごく仲良くなれたんだよね。これは、コミュニケーションツールとしてすごくいいなってイメージが変わった。だから自分でも作ることにした。実際にフィンランドとエストニアも旅して、本場の文化を取り入れながら形にしたよ。
どこにでも行ける旅人が、なぜ長野をベースに選び続けるのか
――そういった背景があったのですね。それだけ旅好きで、フットワークも軽いサンボさんが、長野に拠点を持ち続けているのはどうしてですか?
正直、そもそも長野に移住したつもりはないんだよね。あくまで遊ぶためのベースをここにした、という話。俺は、住むところは世界中含めてどこでもいいんだけど、だいたいすぐに飽きちゃうんだよね。
コロナの間は、タイに一ヶ月滞在してゴルフ三昧な暮らし方をしてみたこともあるんだけど、いい生活ではあったけどルーティンになってくるとつまらなかった。とにかくベースはどこでもよくて、今は自分が好きだと思える自分の店が長野にあって、長野がいい感じだからここがベースになってる。
――「いい感じ」というのは?
俺は恐らく日本一ペースが早い大阪で生まれ育ったから、それに比べると長野はのんびりしてるんだよね。仮に大阪で、当時の遊びながら働く生活スタイルのまま「Asian Night Market」を始めていたらすぐに潰されちゃったと思う。でも長野なら、遊びながら稼ぐスタイルでも、周りの人の倍動けば余裕で生き残ることができた。つまり、そういう意味で楽ができる。
――その「楽さ」は、長野にきた20年前と今でも変わっていませんか?
商売のやり方を確立しているから、慣れという意味の楽さかもあるかもしれないね。今は、ペースを落として、24時間を24時間として動いても十分暮らしていけるから楽だね。もう、20代の頃みたいに人の二倍のスピードで動く歳ではなくなってきてる。記憶がなくなるくらい働き倒すみたいなことを、48歳になった今またできるとは思っていない。体力が落ちているのか落ちていないのかわからないけど、考え方も変わってきたし。
たとえば、コロナでお客さんが減ったタイミングで、宿泊のチェックインのシステムを完全に無人でも対応できるようにアップデートしたから楽になった。カフェバーも、メニューの量も減らして、自分一人でも回せるようになった。昔はとにかく稼がないとと思っていたけど、今は繁忙期と閑散期の波も分かってきたから、赤字もないし焦らずにやっていければと思えるようになったね。
――最後に、今後長野で新しいことや好きなことを始めてみようとしている人へのメッセージをお願いします。
会社にいればお金を貰える方が楽な人はサラリーマンをやればいいと思うし、自分のチョイスで好きな方向に舵取って進みたいなら独立したらいい。どっちが偉いとかじゃなくて、どっちが好きか。ガーっと稼いでガーっと休む働き方は、サラリーマンだとなかなかできないよね。全部自分でチョイスして、お金も時間の使い方も自分で即断即決できるのは強みだよ。
俺が20代の頃は、リモートワーク的にどこでも働ける感じじゃなかったけど、どこでも働ける人なら長野はかなりいいんじゃないかな。朝起きて雪山に滑りに行って、夕方から仕事ができる。そういう風に働いていてもやっていけるよ。
WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Piseのホームページ
SAMBO SAUNのホームページ
職業、遊び人。どこにでも行ける旅人が、なぜ長野をベースに選んだのか【前編】先輩起業家インタビューvol.10
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「職業、遊び人。俺は仕事中心じゃないから、遊ぶために稼いでる。今のゲストハウスの仕事は楽しいし好きだけど、ゲストハウスをやることが夢だったわけではなくて。長野をベースとして住むにあたって、日本にいながら旅気分で楽しく過ごせるようにこの場所を作った。」
そう語るのは、長野市善光寺表参道沿いにあるカフェバー、レストランを併設したゲストハウス「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」、異世界サウナ「SAMBO SAUN」を経営する辻和之(つじかずゆき)さん、通称サンボさん。
スキーがきっかけで、地元大阪と長野の二拠点生活を始めたサンボさんは、27歳で長野に移住。「遊びながら稼いで旅をする」生活を実現するために、タイ料理とアジアン雑貨の店「Asian Night Market」をオープンしました。
インタビュー前編では、遊びを仕事にしていく働き方、長野で独立するまでのストーリーを聞きました。
<お話を聞いた人>
合同会社GIANT KILLING 代表辻和之さん
1976年生まれ、大阪出身。18歳からフリースキーを始め、夏は大阪、冬は長野の雪山に篭る2拠点生活を約10年間行う。2005年に長野市に移住し、タイ料理とアジアン雑貨の店「Asian Night Market」をオープン。2015年にはカフェバーを併設した「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」としてリニューアルオープン。2023年には店内の一部を改装し、異世界サウナ「SAMBO SAUN」をはじめる。
「儲からなくてもいいからやりたいこと」を続けるうちに、それが仕事になっていった
――まずはサンボさんが現在行っている事業について教えてください。
独立して仕事を始めたのは2005年、28歳の時でした。もともとは、「Asian Night Market」というタイ料理とアジアン雑貨の店を長野市善光寺の近くで始めて、今は同じ場所でゲストハウス「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」を運営しています。現在はスタッフを雇っていないので、自分で接客をするし、併設したカフェバーで調理とバーテンダーもしています。2023年には、店内の一部を改装して、「SAMBO SAUN」というサウナの営業も始めました。
どの店も、仲間を集めつつ自分でDIYして作りました。大工の仕事で県内外に呼ばれることもあります。ほかにも、もともとはプロのスキーヤーですし、そこから派生してカメラマンも。長野に来てからは、狩猟免許を取得したので猟師としても活動しています。夏場は花火職人。旅人として世界中を旅して、買ってきたものを日本で販売するバイヤー的な動きも20代の頃から続けています。一番最近行ってきたのはアフリカ。約一ヶ月間かけて9460キロを車で運転し、10か国を周りました。
――猟師に花火師まで!幅が広いですね。自分の好きなことを仕事にしてきたイメージでしょうか。
いや、俺は別に好きなこととかやりたいことを仕事にしているわけじゃなくて。もちろんイヤなことはしていないけどね。利益がどうとか考えずに、日々「これがやってみたいな」と思ったことをしているうちにそれが仕事になった。
仕事になったころには、次のやりたいことが生まれているから、また「儲からなくてもいいからやりたいこと」をしているうちにそれがまた仕事になって、また次、また次と回してきただけです。
だから、職業サンボ・遊び人。俺は仕事中心なタイプじゃないから、遊ぶために稼いでる。よく、「二号店を東京に作ってください」とか「店舗をプロデュースしてください」って相談を受けるんだけど、俺はビジネスに興味がないから全部断ってる。遊ぶためのお金があればいいし、自分が遊べない場所を作る意味がないからね。
フリースキーに出会い、長野をベースに遊びながら稼ぐ暮らしをスタート
――現在の遊びながら働くスタイルに至るまでの経緯を教えてください。
学生の頃から20代の半までは、夏の間は大阪でバーテンダーをやったり派遣営業の仕事をしたりしてお金を貯めて、冬は長野の雪山にこもってひたすらスキーをして無一文になる、そんな暮らしをしていたね。
高校生の頃までは、地元の関西の強豪校でアメリカンフットボールに打ち込んでいて。大学進学でアメリカンフットボールをやめてから、たまたまフリースキーを知って夢中になって、それから長野に滑りに来るようになった。当時、フリースキーはまだ競技として確立していなかったから、自分が「かっこいい」と思う滑りが出来るのが面白くて。
――先ほどスキーも仕事の一つだとお話がありましたね。
冬の雪山で滑っていたら、たまたまやってきたプロの撮影クルーの目に止まって、スポンサーがつくようになりました。スキー板やアパレルブランドの広告塔として滑ったり、海外に渡ってスキー撮影をするようになったんですよ。そこから、被写体として自分もカメラのことをわかっていた方がいいだろうとカメラを始めたら、次第に写真の仕事も増えて。
でも、スキーも写真も、クオリティとしてはプロを超えるレベルでやるけれど、お金を稼ぐという意味では別に仕事にしたくなくて。滑りたいように滑る、撮りたければどこまでも行く。そういう自分でいられるようにしたいなと思ってる。
――旅を始めたのも、カメラやスキーがきっかけですか?
初めての旅はフリースキーのフロンティアと言われていたアラスカで、そこからはずっと海外の雪山ばかりに行っていました。そしたら、知り合いから『そんなに海外に行ってるなら、買い付けを手伝って欲しい』って言われて、そこからタイをメインに雑貨の買い付けもするように。
当時はもう大学を卒業していて、夏の間は大阪で通信回線の営業の仕事をしていたので、金曜日の仕事終わりに空港へ向かってタイに飛び、週末に買い付け、日曜日の夜行便で帰ってきて月曜日の朝に買い付けた商品を渡し、そのまま営業先へ出勤、みたいな暮らしをしていました。かなりのハードスケジュールだったし、買い付けで得られる給料といった給料は無し。それでも楽しかったから全然よかった。
――本格的に長野に拠点を移したのはどうしてですか?
自然の中で遊びつつ、遊びと両立してお金も稼ぐことを考えたら、お店をやるのがいいかなと思って。18歳の時からずっとスキーのために長野に通っていたから、長野を選んだのは自分の中では自然な流れでした。
それから、ひたすら稼いで貯金を使い果たしてまた稼ぐ、みたいな生活は28歳までにしようと決めていました。カート・コバーン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、有名なロッカーたちは27歳で死ぬでしょ? 生き方を変えるぞって決めて、長野に来たんだよね。
自分の行きたい場所がないなら作ろう。長野での事業のはじまり
――長野にやってきた当初の仕事として、飲食店と雑貨屋を選んだのはどうしてですか?
当時の自分の持っているアイディアとお金の量で出来て、かつ勝算のある事業の形がそれだった。
俺は、きっちりした内装で、日本人向けの味付けの料理を出す店よりも、タイのリゾート地にあるような、現地のお母ちゃんが作った料理が食べられるお店が好きでね。当時の長野にはそういうお店がなかったから、自分で作ることにしました。それが「Asian Night Market」です。
――長野に拠点をおく上で、自分が欲しい場所がなかったから自分で作ったと。
長野市内でもともと蔵だった古民家を借りてね。当時はまだセルフリノベーションとかDIYみたいな言葉も使われていない頃だったけど、店の前に「ボランティア募集」の告知を出して、仲間を集めながらほぼ自力で改装しました。
店をオープンしてから一番最初に目指したのは、日中は雪山に滑りに行くためにランチの間お店を任せられるスタッフを育てること。もともと「自分の店を持つのが夢だった」というわけではないから、とにかく自分がいなくても回る形を目指した。順調にスタッフが増えてきてからは、数週間以上買い付けや旅のためにお店を離れることも増えてきて。
――もともと個人で始めた事業を法人化したのはどうしてですか?
個人的には、「代表」の肩書きがかっこいいとは思っていなかったから、法人化しなくてもいいかなと思っていました。ただ、3年目を超えた頃、税理士さんに決算書を見てもらったら、「法人化した方がいい」と。個人で事業を始めた時点で屋号があったし、七人くらいスタッフも雇っていたので、会社にしてから何かが変わったかといったらやっていることはなにも変わらなかったです。
ただ、俺はとにかくやっていることが多かった分、個人だと「お店以外の事業の売上が上がっていないのに、旅やスキーに行っているのは遊び?」と言われてしまう。でも、旅やスキーもその時々すぐにお金にならなくてものちのち次の事業に生きてくるわけで。
会社を立ち上げる時、業務内容を書き出すから、飲食業、宿泊業、カメラマン業、不動産業、スポーツコンサルティング、と全てを事業の業務として割り振りできたのはよかったですね。「新規事業のための種まきなんです」とちゃんと説明できる。俺はとにかく楽しくいたいから、働いても働いてもお金が残らないんじゃやる意味がない。うまくお金を残しつつ、次の新しいことに投資できる方が、さらに稼いで、さらにいろんなことができる。そういう意味では、法人化してよかったなと思います。
インタビュー後半では、オープン10年でゲストハウスへ業態を変えた理由や、長野を拠点としている理由、現在の働き方・暮らし方について聞きました。
WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Piseのホームページ
SAMBO SAUNのホームページ
SSSコラム⑨チームビルディング
担当:SSSコーディネーター久保
こんにちは、SSSコーディネーターの久保です。
今回はスタートアップ企業が抱える「人」の悩みについて、お話したいと思います。
(※本コラムの内容は執筆者個人の見解であり、長野県やSSSの公式見解ではありません。)
人手不足が叫ばれる時代であり、どの企業にとっても人材獲得や採用は経営上の大きな課題となっています。特に、社員数が比較的少ないスタートアップにとっては、一人の採用によって大きく会社の雰囲気が変わる可能性があり、場合によっては大きな成長を遂げることもあれば、経営リスクに直面することもあり得ます。
後者の可能性をゼロにはできないですが、大事なポイントを抑えておくことで、そのリスクを低くすることができます。重要なポイントとして、前回は入口となる人材採用についてお話したので、今回は、個々人がパフォーマンスを最大限発揮できるチームビルディングについて書いていきます。
チームビルディング
カルチャーがフィットする人材が採用できても、その人材がしっかりと自社やチームになじんでいくことが経営上も重要になります。その際、仕事をしながら慣れる、というスタイルもありつつ、やはり既存メンバーや代表者がいかに同人材をチームとして受け入れていくか、その環境を作れるかが重要になります。チームビルディングも様々な方法をインターネットで探すことができますが、スタートアップ企業にとって重要なポイントをここでも2つ紹介します。
- 社員がリアルで集う機会の設定
フルリモートが普及し、同僚とリアルで顔を合わせたことが無いと聞いても違和感がない現代ですが、スタートアップにとってはリアルで顔を合わせる機会を設けることが重要です。大企業においても、様々な業界で職場回帰が一つのトレンドになっていますが、その目的の一つはリアルで顔を合わせて関係性を構築することにあります。スタートアップにおいても、限られたメンバーがお互いの理解を深めることで、グッドプラクティスやクライアント情報の共有、事業の相談が円滑に行われます。
また、スタートアップ企業では仕事の進め方やクライアントとの関係構築などが、マニュアルやルールブックで規定されているケースは少なく、入社した直後のメンバーは進め方の判断に悩むことが想定されます。そういった場合も、リアルで顔を合わせており気軽に相談できる同僚がいると、悩んでいる時間が少なく済み、生産性の高い仕事に取り組みやすくなり、結果としてやりがいや働きがいの向上に寄与します。
全社での定例会議をリアル開催する、定期的に合宿を行う、など集まる理由は様々に設定できるかと思いますので、ぜひ社員がリアルで集う機会を自社にあった方法で検討してみてください。
- 全社的な情報共有と意見交換
スタートアップでは新規事業の決定やビジネスパートナーの獲得といった重要な経営事項がスピーディーに行われる傾向にあります。そのような会社の取組状況や判断を、代表を含む経営層から社内全体に情報をリアルタイムで共有・相談することが、チームビルディングの観点からも重要です。個々や固定されたチームで動くことが多かったり、代表個人が考え動くケースが多い場合、メンバーが企業に所属している意識(エンゲージメント)が薄れてきてしまったり、自身の活動が会社にとって重要ではないと不安になり、モチベーションの低下や離職に繋がってしまうことがあります。それを防ぐため、会社が進めている事業の成功・失敗を共有したり、意見を求めたり、社員の声(不満を含めて)を聞く場を設けることで、社員が会社の経営自体も自分ゴトとして積極的に考えることができます。結果として、社員間や社員と経営層との関係性をより強固にすることができます。
情報共有の方法は、①のとおり全社的に集まる機会を利用することも想定されますが、リアルタイムや高頻度の情報共有においては、チャットツール等での共有も便利です。現在は、様々なチャットツールがあるため、それらをうまく使いこなし、固定されたメンバー同士の会話だけでなく、会社全体のチャンネルやスレッドが機能することを意識して運用すると社員のモチベーションを高く保つことができます。
このように、メンバー間での相談のしやすい環境や代表や経営層とのコミュニケーションも取りやすい環境は、心理的安全性を高めることにも寄与します。心理的安全性とは、組織内でメンバーが誰に対しても自分の意見や気持ちを安心して発言できる状態を指しますが、スタートアップにおいても、上記の通りメンバーが心理的安全性を確保できているか、を考えていくことが重要になります。
今回は、スタートアップがチームビルディングに取り組むうえで、押さえておくべきポイントを絞ってお話しました。もちろん、各企業の事業内容やメンバーの個性によって、チームビルディングのスタイルも様々な方法があり得るかと思います。それでも、比較的メンバー数が少ない状態で大きな成長を目指すスタートアップにとって重要なポイントは変わらないため、今後会社規模を拡大する際や新たなメンバーを獲得する際には、ぜひ参考にしていただければ幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
20代のクリエイター仲間と、地方の若者のロールモデルに。人生を楽しむ働き方を長野で実現【後編】先輩起業家インタビューvol.9
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「オンクリは、大きな目標として『若者のための社会を作る』ことを掲げています。でも、今の会社の規模では社会を変えるようなことはまだまだ何もできないので、まずは自分たちの会社の雇用を増やして、幸福度の総量を上げることをすごく意識しています。」
そう語るのは、株式会社オンクリ代表の土屋喬椰さん(つちやたかや)さん。「自由な働き方」を追求するオンクリでは、全員がフルリモート勤務で仕事に取り組みながら、時には自然に囲まれた長野のオフィスに集まり、焚き火を囲んだり、サウナで語らったり、星空を眺めたりと、オフの時間を楽しみながらのびのびと働いています。
インタビュー後編では、高校時代に抱えていた絶望感や、長野での暮らし、今後の展望やチャレンジしたいことについて聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社オンクリ 代表 土屋喬椰さん
長野県東御市に生まれ、プログラミングが学べる専門学校に進学。社会人を1年半経験し個人事業主として独立、2021年にオンクリを設立。趣味はサウナとDIY。
地方での働き方の夢が描けず絶望していた高校時代
――インタビュー前編では起業に至るまでのお話をお聞きしました。「起業したい」というモチベーションはなかったとお話がありましたが、当時は「創業者」に対してどんなイメージを抱いていましたか?
少し話が変わるのですが、高校生の時の僕は将来を考えてすごく絶望していたんです。
――絶望ですか。
はい。具体的にやりたいことや夢がなくて。進路に悩む中で、ただ漠然と「お金持ちになりたい」みたいな感覚がありました。そこで、「一番お金持ちに近い進路って何だろう?」と考えて最初に浮かんだのが、祖父がやっていた農業だったんです。
祖父は農業地帯で大きな畑を持っていたので、「儲かりそうだな」という気がしたのですが、祖父や家族に相談したら「大変な仕事だし、ましてや大学や専門学校に行かずに農業をやるのか」と反対されてしまって。
就職も検討したのですが、高卒で入れる職場がそもそも少なく、あったとしても手取りで13〜14万円ぐらいの仕事しか見つからなかったんです。それは「ちょっと夢がないな」と思って。当時、ホリエモンさんとかひろゆきさんのようないわゆる「IT長者」がよくテレビに出ていたので「ITって儲かるんだ」と思い、エンジニアの道を選びました。
――当時はとにかく「儲かること」がしたいと考えていたと。それはどうしてですか?
自分が絶望していたのは、将来の理想像が身近にいなかったからだと思うんです。でも、もし身近に年収1000万円を稼いでいる先輩がいたら、その人に「どうしたらいいんですか?」って聞けるじゃないですか。僕みたいに、地元の就職先を探して「夢がないなぁ」と思わなくて済む。
――地元の若者が憧れる存在になりたかったのですね。
はい。「お金持ち」と聞くと「とにかく稼いでいて、いい時計をつけていい車に乗っている」みたいなイメージがあると思うんですけど、自分より上の世代のそういう人を見ても、「自分もこうなれるかも」というイメージにはなかなか繋がらないですよね。でも、20代で身近にそういう人がいたら将来のイメージが湧きやすいだろうと思い、最初はお金にこだわっていました。
自由な働き方を実現した上で雇用を増やしていきたい
――「最初は」ということは、独立当初と現在では目指す姿が変わってきているということですか?
はい。最近の若い子たちの話を聞いていると「たくさんお金を稼ぐ」ということ以上に「パソコンがあれば家でもどこでも働ける」とか「休みも自由に取れる」みたいなことに魅力を感じている印象があるんです。なので、今はそこから逆算して、会社としては「大きな利益を生み出す」ことより、「自由な働き方を実現した上で雇用を増やす」ことを中期的な目標にしています。
――なるほど。現在は、自由な働き方を叶える方向に変わってきたのですね。
オンクリは、大きな目標としては「若者のための社会を作る」ことを掲げています。でも、今の会社の規模では社会を変えるようなことはまだまだ何もできないので、まずは自分たちの会社の雇用を増やして、幸福度の総量を上げることを今はすごく意識しています。実際にオンクリで働いてる人にとって、人生の中でオンクリという会社や仕事がどういう役割を果たしてるかが大事だなと。
――そうした目標を叶えていく上で、長野で創業したことは良い選択だったと思いますか?
僕は長野県の東御市出身なんですが、正直「長野が好き」とか「東御が好き」みたいな感覚は正直あんまりなくて。でも、「自然が好き」とか「プライベートも楽しみたい」みたいな人にとって、長野県はすごくいい場所だと思います。
僕らのオフィスがある佐久市の祖父の土地はすごくいい場所なんです。山の方にあって、四方を畑に囲まれていて、夜はきれいな星空が見えます。外に出る営業のない日は、佐久のオフィスで仕事をしながら、友達や仲間とみんなで集まって焚き火をしたりとか、畑仕事をしたり、庭に作ったサウナで汗をかいたりしていて。昨日も薪ストーブを使って、ダッチオーブンで無水カレーを作りました。
――とても素敵な暮らしを実現されていますね。
僕らと同じ暮らしを都市部でやろうとするのは難しいと思うので、そういう意味では長野で開業して良かったと思います。
今後は、オンクリの事業とは別軸で、「若者の居場所作り」にも取り組んでいけたらと考えています。
――詳しく教えてください。
中高生の中には、不登校の子や、「学校が合わないな」と感じている子たちがいると思うんです。そういう子たちにとって「こうなれるかも」みたいなモデルが必要だと思っていて。
そこで、僕らの「暮らし」の部分であったりとか、休める場所みたいなものを彼らに提供するために、オフィスの付近に、誰もが立ち寄れる飲食店や、宿泊もできて焚き火もできる小屋を作ろうと計画しています。
――地方でフルリモートの仕事をしながらのびのび働く大人と、地元の若者との接点を作ろうとしているのですね
おっしゃる通りです。「こんな生き方・働き方もある」というモデルかつ、モヤモヤを抱えている若者たちの受け皿になれたらいいなと思っています。
目指すは一億円規模。長野の暮らしを満喫しながら、しっかり働きしっかり遊ぶ
――これからの目標や、今後チャレンジしたいことを教えて下さい。
現在は「3期以内に売上を1億まで伸ばす」ことを目標にしています。なぜかというと、僕たちは自由な働き方を追求した上で雇用を増やしたいと考えているからです。1億円規模の仕事を受ける器があれば、地方を拠点にしている駆け出しのフリーランスの人など、いろんな人に仕事を頼めると思うんです。そういう意味で、まずは利益をしっかり作ることが今の目標です。
さらに長期的なスパンで言うと、そうして現在の事業で出た利益を次の事業に回したいと考えています。地方では、「利益が出ていてすごく魅力的な事業なのに、後継者がいないから続かない」みたいな話がよくあると思うんです。今のオンクリは、若者を集められる箱になってきているので、そういった後継者不足に悩んでいる事業を僕たちで買い取って、地方の20〜30代の若い人たちを雇い、引き継いだ事業を運営して活性化させていく、という動きに繋がるような役割を果たせるのではないかと。
――理想的な働き方をオンクリで叶え、さらに地方企業の課題を解決して新しい受け皿も増やしていく。
そうですね。最初に掲げた「すべて一貫してできる制作会社を作る」というのも大事な目標ですが、地方の制作会社の事例をみていると、売上1億円くらいが上限だなと。なので、1億円を達成した時点で、次の挑戦をしてみたいと考えています。
――最後に、長野で創業しようと悩んでいる人、もしくは法人化をするか悩んでいた当時の自分に一言メッセージをお願いします。
僕は、死ぬほど働きたい人が長野にいる意味はあんまりないと思っています。どうせめちゃくちゃ働くなら、もっと稼げるところで働いた方がいいと思うので。でも長野なら、自然に囲まれて仕事ができて、土日もしっかり休んで、友達と遊ぶ暮らしが実現できる。「自然が好き」とか「人生を楽しみたい」みたいな、プライベートも楽しみたい人であれば、起業をする上で長野県でというのはすごくいいところだと思います。
もし起業する前の自分に言うとしたら、 「めっちゃ頑張って仕事するのもいいんだけど、ちゃんと長野にある魅力を目を向ければプライベートも楽しめるよ」みたいなことかなと思います。せっかく長野を選ぶのであれば、「頑張って休まずに自己研鑽する!」みたいな感じよりかは、ちゃんと休んで暮らしを満喫した方がいいんじゃないかな?と。
これからも僕らなりに、「地方で仕事をしながら楽しく暮らしている」人のロールモデルになることを目指していきたいと思います。
株式会社オンクリのHP https://onkuri-web.com/
20代のクリエイター仲間と、地方の若者のロールモデルに。人生を楽しむ働き方を長野で実現【前編】先輩起業家インタビューvol.9
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「法人化することは、早い段階から検討していました。個人事業主として一人で独立した頃は、まだ受注できる仕事の量やできることも限られていましたが、いずれはデザイナーやエンジニア、マーケターといったクリエイターの仲間たちを集めて会社にできたらと」
そう語るのは、株式会社オンクリ代表の土屋喬椰さん(つちやたかや)さん。2022年に長野県佐久市で設立された株式会社オンクリは、ブランド設計からマーケティング施策の設計・実行、クリエイティブ制作・運用までを一貫して行う会社です。代表の土屋さんを含め、社員は全員20代のクリエイター。フルリモートで自由な働き方を追求しています。
インタビュー前編では、就職後1年半で独立を選んだ経緯や、さらにそこから数年で法人化に踏み切るまでのストーリーについて聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社オンクリ 代表 土屋喬椰さん
長野県東御市に生まれ、プログラミングが学べる専門学校に進学。社会人を1年半経験し個人事業主として独立、2021年にオンクリを設立。趣味はサウナとDIY。
20代のクリエーターによる、地道な泥臭いマーケティングを楽しむ制作会社
――まずはじめに、株式会社オンクリの事業内容について教えてください。
株式会社オンクリは、もともとは僕個人の事業として立ち上げ、2022年に法人化をしました。WEB制作・マーケティング支援の事業と、システム開発という主に2つの軸で事業を展開しています。
WEB制作・マーケティング支援の事業は、企業のWebサイトやECサイトの制作、CRMシステム(Cusomer Relationship Management、顧客関係管理システム)の導入支援や、写真や動画といったコンテンツ制作が中心です。後者のシステム開発では、企業の社内で使う業務効率化システムを、完全にスクラッチから開発することができます。
オフィスは佐久市に構えており、僕を含めた20代のクリエイター4名で運営しています。基本的にはフルリモートでの勤務ですが、月に数度オフィスに集まり、自然の中で焚き火やサウナをしながら顔を合わせてコミュニケーションを取る機会を作っています。
――会社のホームページを見ると土や畑仕事といったモチーフが多く、いわゆる制作会社とは少し異なる印象を受けたのですが、これにはどんな理由がありますか?
オンクリは「地道な、泥臭いマーケティングを楽しむ制作会社」を掲げています。
弊社のマーケティングは、いわゆる「SNSでバズる」みたいなことを推している訳ではなくて。それよりも、たとえば顧客情報を一からデータ化したり、WEBサイトをしっかり作り込んで、コンテンツを継続的に更新するといったような、地方の企業にとって必要な「泥臭いこと」を、地道に一緒にやっていきます。
――個人事業主として事業を立ち上げてから、約1年後に法人化を果たしたのはどんな経緯が?
個人事業主として事業を始めてから、よく「マーケティングだけが得意な会社だと制作物が外注だから思い通りにならない部分がある」という話や、逆に「制作会社に頼んで綺麗なサイトが完成したのに全然売り上げが立たないぞ」みたいな悩みを聞いていたので、それらを一貫してできる会社があったらいいんじゃないかと考えるようになりました。
僕ひとりの個人事業として独立した頃は、まだ受注できる仕事のキャパも含めできることが限られていました。ですが当時から、デザイナーやエンジニア、マーケターといったクリエイターたちを集めて会社にできたらすごく良い会社になるだろうなというところまで考えていたので、法人化することは割と早い段階から検討していましたね。
持病を抱えながら会社員として働くことへのもどかしさ
――土屋さんのご自身のキャリアの変遷について詳しく教えてください。
高校卒業後、ITエンジニアの勉強をする専門学校に2年間通いました。専門学校卒業後は、地元のシステム開発やWeb制作をしている会社に就職し1年半ほど勤務し、2021年1月に個人事業主として独立した形です。
――当時から地元・長野で働きたい気持ちがあったのですか?
いえ、特にそういったわけでもなくて。「どこで働くか」というより「何をするか」に重きを置いて就職先を探していました。
当時僕は、「農業」と「IT」という2つの軸を掛け合わせたことがしたかったんです。僕の祖父が農家だった影響で、農業をやりたい気持ちが昔から心の中にありました。ですが、祖父や家族から反対されたので、ひとまずエンジニアの勉強をしたんです。それでもやっぱり農業と関わることがしたくて、両方組み合わせてやっている会社を探してみたら、たまたま長野で見つけたので、そこに就職しました。
――その後1年半で独立されたのは、ご自身でやりたいことが見えてきたといったところでしょうか?
僕には「潰瘍性大腸炎」という持病があり、症状が悪化すると常に腹痛がしてトイレが近いといった状態になってしまうので、出社するのが難しくなってしまいました。それでも会社の理解を得てフルリモートで働いていたのですが、最終的には退職することを選びました。
――そこから個人で独立して仕事を探すのは大変ではなかったですか?
大変でしたね。会社員時代は主にエンジニアやマーケティングの仕事をしていて営業は未経験だったので、最初はどう仕事を取ったらいいのか全くわからなかったんです。独立して3ヶ月は売り上げも立たずただお金が減るばかりなので、とりあえずメールをたくさん送って、アポが取れた企業にひたすら行く、ということを繰り返していました。
そうしたら、独立後4ヶ月目になって初めて前職の月収をポンと超えたんです。その頃から、「これはいけるんじゃないか」と思えるようになりました。半年ぐらい経つ頃には、売り上げが立つようになってきたので、そのまま続けてこられた感じです。
――独立初期の頃から、「地方にトータルで全部できる制作会社があればいいのでは」と考えていたとお話がありましたが、本格的に法人化を進めることになった経緯を教えてください。
個人事業を立ち上げてから半年ほどで、既に自分だけでは回らないような状況だったので、初めは業務委託として同年代の仲間に仕事をお願いしていました。
一人でやるなら個人事業の方が全然良いと思うのですが、自分は最初から「マーケティングや制作を一貫してできる会社を地方に作りたい」という思いがあったので、案件が増えてきて、周りに仕事を任せられる優秀なデザイナーやエンジニアの仲間がいたことから、「仲間たちを雇用して会社にしてしまった方がいいな」と感じるようになり、会社として枠組みを作るために法人化に踏み切りました。
「人を雇用する」というリスクの壁を、高校時代の同級生に触発されて乗り越えた
――「経営者になりたい」とか「創業したい」というよりは、会社の枠組みがあった方がいいな、という思いだったんですね。
そうですね。経営者になろうとは思っていなかったです。
――起業されるタイミングや法人化されてから、県の創業支援に関するサポートは何か受けましたか?
長野県の創業支援の枠で融資を受けています。それから「長野県よろず支援相談室」という県の経営相談みたいな窓口の相談支援を受けました。相談員の方が、たまたま専門学校のときにお世話になった先生だったということもあり、創業初期に相談しに行きました。
創業後の今でもお世話になっていて、例えば顧客の方から補助金についての相談を受けたときなど、県で受けられる補助金や制度について教えていただいています。
――創業当時、身の回りに創業をしている同年代の仲間はいましたか?
以前SHINKIで紹介されていた株式会社Contactの依田は高校時代の同級生です。彼が東京の大学に進学して以降は連絡を取っていなかったのですが、僕が前職でやっていたことや、個人事業主として頑張っていこうとしていたのを、彼の方は知ってくれていたみたいで。
それまでは連絡があってもあまり返さずにいたのですが、ある日急に「俺もちゃんとビジネスを覚えて、これから頑張るんだ」と電話が来たんです。僕もちょうど同じようなことを考えていた時期だったので、そこからよく連絡を取り合うようになって、結果的に同じ時期に起業をしました。
――同級生の仲間に触発された部分もあったのですね。
人を雇用するってリスクもあることじゃないですか。僕はそれで二の足を踏んでいたのですが、依田はまだ事業を始めたばかりの段階でいきなり法人化をしていて。
もともとは、先に僕が個人事業主として独立していたので、依田から「どうやってお金を回してるのか」とか「どうやって仕事を取ってるのか」といった相談を受けていたんです。でも、法人化したのは彼の方が早かった。それを見てちょっとした対抗意識というか、「自分も何かやってやろう」という気持ちが芽生え、法人化を決断しました。
――リスクを感じていた部分もあったのですね。いざ法人化してからは、順調に事業が回っていますか?
なかなか、「ずっと順調です」とはいかなくて。どうしても、あまり仕事がない時期というのは今でもあるのですが、創業者が集まるイベントや、地方の起業展などには積極的に顔を出して、新規の営業活動を何とか少しずつ頑張っています。
インタビュー後編では、「将来に絶望していた」という高校時代のことや長野で起業することのメリット、今後の展望についてお聞きしました。
株式会社オンクリのHP https://onkuri-web.com/
SSSコラム⑧長野県の女性起業家支援の取組紹介
担当:SSSコーディネーター田中
こんにちは、SSSコーディネーターの田中です。
今日は、昨年度から長野県が本格的にスタートした女性起業家支援の取組をご紹介いたします。
突然ですが、皆さんは長野県の現在の人口をご存知でしょうか?
「200万人よりちょっと多いぐらい」というざっくりとした認識をお持ちの方も多いかと思います。私も学生時代の社会科の授業でそのように勉強をした記憶があります。
しかし本年2月、ついに長野県の人口が200万人を下回りました。(R6.9.1現在で1,989,964人)
200万人を下回ったのは1973年以来のおよそ50年ぶりとのことです。
長野県が調査した2000年と2020年を比較した人口増減率(下記グラフ)を見てみると、20歳~34歳までの若い方々の転出超過による人口減少が目立ちます。さらにその中でも、男性よりも女性の方が、その傾向が顕著であるといえます。
※出所:長野県公式HP
こうした中、昨今の人口減少を少しでも抑えていくためには、「女性や若い方々から選ばれる県づくり」が極めて重要です。そのための一つの施策が「女性起業家支援」です。
女性が希望を実現し、自分らしく働くことができる環境を作っていくために、SSSでは女性起業家支援に特化した窓口を令和5年度から設けました。
こちらの窓口では、女性の相談員が起業のご相談を受け付けております。男性の相談員には相談しにくいこと、あるいは女性ならではの意見・アドバイスが欲しい場合には是非、こちらへご相談ください。(相談員のプロフィールや相談方法は以下の女性起業家支援専用ページ「SOU」をご覧ください。)https://shinki-shinshu.jp/sou/
また、今年度は、県内4地域(北信・東信・中信・南信)ごとに女性起業家同士のコミュニティ構築のためのイベントを開催しています。
先輩女性起業家を招いて体験談を聞いたり、ご飯を食べながらアイデアを語り合ったり、様々な取組を通して、仲間づくりの機会にしていただけます。
▼こちらは、先日軽井沢町で開催したイベントです。起業に役立つノーコードツールの使い方を学びながら、美味しいランチ・コーヒーと一緒に交流を深めました。
- まだ具体的な事業計画はできていないけど、なんとなく起業に興味がある、
- 同じ志を持った仲間を見つけたい、
- 起業に関する情報を収集したい、
などなど、どのような目的でも結構ですので、相談窓口やイベントへお気軽に足をお運びください。
なお、イベント情報は公式FacebookやInstagramに掲載しております。
https://www.facebook.com/ShinshuStartupStation
https://www.instagram.com/shinshu_startup_station
SSSは女性の皆さんの夢の実現を応援させていただきます。
お気軽にご利用ください。
幼馴染3人で地元のゲストハウスを事業承継。観光業を通して地方創生を目指す【後編】先輩起業家インタビューvol.8
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「本業と並行しながら長野で起業をすることに対しては、もちろん不安はありました。ですが、やはり仲間がいたことが大きかったです。仮に事業が上手くいかなくても、3人なら一緒に楽しめるだろうという信頼がありました。不安はゼロではなかったけれど、期待やわくわく感の方が大きかったですね。」
そう語るのは、長野駅前にあるゲストハウス「Local Knot Backpackers」を運営する鈴木敦也(すずきあつや)さん。松本出身の幼馴染3人組で長野駅前のゲストハウスを事業承継し、それぞれが本業と並行しながら、地元長野で宿を運営し、地方創生に貢献する新たな挑戦を続けています。
インタビュー後編では、実際に引き継いだ後の手応えや、本業を続けながら起業することにどう向き合ったのか、今後の展望についてお聞きしました。
<お話を聞いた人>
Local Knot Backpackers
■藤澤厚太/ KOTAさん
1997年生まれ。長野市/松本市出身。「人や組織の可能性を最大化する」ことをキャリアビジョンとして掲げて活動。ベンチャー企業で戦略/新規事業開発コンサルタントとして活動すると同時にCoach A Academiaを経てコーチとしても活動している。
■堀内勇吾/ UGOさん
1997年生まれ。松本市出身。大学進学を機に東京へ上京。大学在学中はゼミや学園祭実行委員、バイトに心血を注ぎ、密度の濃い学生生活を送った。大学卒業後は2020年に日本の大手総合化学メーカーへ入社。2023年11月にエンジニア人材サービス会社に転職。
■鈴木敦也/Tsuyaさん
1997年生まれ。松本市出身。高校卒業後、管理栄養士を目指し上京。大学在学中は資格勉強の傍ら、飲食店でのアルバイトや留学を通じ様々な「食文化」に触れてきた。現在は都内で管理栄養士として働いており、商品開発やマーケティングに従事。
本業で培ったスキルと経験が、起業の後押しとなった
――インタビュー前編では、たった1ヶ月で事業承継の準備をされたとお話がありましたが、その際に県のサポートや助成金などは利用されましたか?
藤澤さん:とにかく早く動く必要があったので、長野県からのサポートをしっかり調べる時間はほとんどありませんでした。でも、本業で事業計画を検討した経験があり事業の実現可能性のポイントを押さえていたため、日本政策金融公庫へ融資申請する際にも、特に大きな問題なく準備を進められました。今後事業を成長させていくにあたり、長野県からのサポート等もうまく活用していければと思っています。
――本業の知識があったおかげでスムーズに進んだんですね。事業継承後の引き継ぎ作業はどうでしたか?
堀内さん:そうですね。バタバタはしましたが、何とかやり遂げました。契約に関するお金の振込が2月中に済み、3月から4月は毎週末長野に通ってオペレーションや実務の引き継ぎトレーニングを受けました。そして5月にはすべての引き継ぎが完了し、自分たちだけでの運営が始まりました。
――地方では人材確保が難しいと言われますが、働いてくれるスタッフはすぐに見つかりましたか?
藤澤さん:基本的には、もともと働いていたスタッフの方々に引き続きお願いしました。その上で、アルバイトとして大学生やワーキングホリデーで来ていた外国籍の方を数名採用しました。それに、僕らオーナーが常に現場にいるわけではないので、新たに現場ディレクターとして、大学時代の友人を雇いました。彼は長野に住んでいて、信頼できる存在だったので助かっています。
――地元で起業したからこそできる採用のあり方ですね。引き継ぎのあとは、どんなステップを踏みましたか?
藤澤さん:次に取り組んだのは、ゲストの方により快適に宿泊してもらうための施設改修です。「森と水バックパッカーズ」としての運営は順調に続けられていたものの、「ジャーナリングするゲストハウス」という新しいコンセプトを実現するためには、いくつかの課題がありました。築45年という古い建物で、壁のひび割れや床の凹凸、天井のシミなど、直さなければならない箇所が多かったんです。
堀内さん:そこで、改修資金を集めるためにクラウドファンディングを行いました。本当にありがたいことに、約200名以上の方にご支援いただき、必要な資金を集めることができました。驚いたのは、その内95%近くが友人や知人だったことです。まだ引き継ぎ間もない頃からこれほど多くの方々が応援してくれたのは、自分たちの活動が認められたことでもあり、励まされました。
鈴木さん:リターンとしてお礼の手紙を書いていると、地元の同級生や、久しく会っていない友人の名前も出てきて、とても嬉しかったですね。
藤澤さん:僕らの新しい挑戦を信じてくれたことが、とても嬉しかったです。これからもその期待に応えられるよう、深呼吸ができる空間を作り続けたいと思っています。
会社員を続けながらの起業。仲間がいたから不安を乗り越えられた
――「森と水バックパッカーズ」と出会ってから、一気に事業が進んでいったのですね。会社員として働きながら起業するというのは、不安が大きかったのでは?
堀内さん:最初は「経営がうまくいくのか」「口約束で終わってしまわないか」という2つの不安がありました。後者については「僕たちなら大丈夫だろう」と思っていたんですが、経営面では正直すごく不安でした。でも、藤澤が本業で新規事業開発をしていたので、「彼がいれば何とかなる」と感じるようになりました。
鈴木さん:僕も不安はありましたが、やはり2人の存在が大きかったです。これまでずっと一緒に遊んでいたので、仮に上手くいかなくても、一緒に楽しめるだろうという信頼がありました。不安はゼロではなかったけれど、期待やワクワク感の方が大きかったですね。
ただ、実際に事業を継承して正式にオーナーになったときは、プレッシャーを感じ、「もうやるしかない」という気持ちになりました。今は楽しんでやれているので、本当にやって良かったと思っています。
――藤澤さんは本業の経験があるとはいえ、初めての起業に対して不安はありませんでしたか?
藤澤さん:もちろん不安はありました。でも、僕はリスクを分解して考えるタイプなので、一つ一つ不安要素を洗い出し、クリアすれば前に進めるようにしていきました。最終的には「少しの勇気さえあればやれる」という段階まで不安を減らしたことで、逆に、「ここまで準備してやらない方がリスクだ」と感じるようになって。「この挑戦をしなければ、一生何者にもなれない」という思いが大きな原動力になりましたね。
――不安を具体的に分解することで、「やらない方がリスクだ」と感じられるようになったんですね。
藤澤さん:そうです。これも本業での経験が役立ちました。要点を押さえて、それをクリアすれば道が開けるという確信が持てたので、その後の不安もかなり軽減されました。
――地元長野で起業するという選択は、改めて振り返っても正解だったと思いますか?
鈴木さん:東京に行ったからこそ、長野の良さが見えてきた部分があります。長野を出る前は、「長野には何もない」と思っていましたが、東京に行ってみると、東京もお金がなければ何もできないんだと気づいたんです。そう考えたら「何もないなら、自分で作ればいい」と思えるようになり、それから長野のほどよいローカル感が最高だと感じるようになりました。今では長野が大好きです。
堀内さん:長野の良さは上京した時から知っていましたが、創業を経てさらに魅力的な街だと思いました。帰る度に好きになる、そんな街です。そんな自慢の街をもっと色んな人々に知ってもらえるよう、みんなで楽しみながら進んでいきたいです。
藤澤さん:長野にはUターンする人も多いのですが、僕たちのように東京を拠点にしながら二拠点生活をしている人は少ない気がします。僕たちの強みは、東京で得たものを長野に還元できることだと思います。この強みを活かして今後も頑張っていきたいですね
半歩も一歩。歩み続けることが前に進む唯一の手段
――改めて、事業が軌道に乗り始めた今の心境を教えてください。
鈴木さん:一つ大きな「武器」を手に入れた感じですね。目に見える形で「これをやっている」という看板ができたことで、自分たちの活動がはっきり示せるようになりました。まだ目指しているゴールには遠いですが、少し肩の荷が下りた気がします。
堀内さん:僕も、過去と比べるとだいぶ進展があり、落ち着いてきました。ただ、これからを考えると、まだまだやることが山積みですね。僕たちの最終的なゴールは、ゲストハウスを運営するだけではなく、地方経済を活性化させて地域を再生すること。まだその道のりは長いです。
藤澤さん:僕も2人と同じ意見です。お客さんが楽しんでくれている姿を見ると本当に嬉しいし、僕たちもこの場所に来るのが楽しみです。このゲストハウスは、僕たち自身にとっても「居場所」なんです。でも、堀内が言ったように、僕たちが目指しているのはもっと大きなものなので、このゲストハウスで終わるつもりはありません。事業をさらに拡大していきたいですね。今は、まだ0歩目といったところです。
――今後チャレンジしていきたいことはありますか?
藤澤さん:ゲスト同士やスタッフとの繋がりだけでなく、地域住民とももっと繋がれるようにしていきたいと思っています。たとえば、今は長野県立大学の学生さんと一緒に読書会を企画したり、信州大学の建築学科の学生さんたちとリノベーションイベントの企画を進めています。今後も、地域の方々にも来てもらえるようなイベントを増やしていきたいですね。
鈴木さん:せっかく長野で拠点が一つできたので、長野の豊かな食材を活かし、地産地消をテーマにした商品開発をしていきたいです。農家さんと繋がりをつくり、規格外の食材を使って、何か新しい商品が作ったり、食にまつわるイベントができたらいいなと考えています。
――最後に、長野での起業を目指しこれから動き出そうとしている方に向けてメッセージをお願いします。
藤澤さん:僕が伝えたいのは「何者かになりたいなら、一歩の勇気を持つこと」です。僕自身もその一言で動き出すことができました。
堀内さん:一人で悩んでいるなら、仲間を作ることですね。仲間がいれば不安なこともお互いにカバーし合えるし、何より一緒にやることで楽しさが100倍になります。
鈴木さん:僕は「半歩の積み重ね」を大事にしてほしいと思います。人によっては最初の一歩が難しいと感じることもあるかもしれませんが、仲間を集めたり、現場に足を運んだりして、少しずつ動き出すことで道は開けます。僕もその半歩の積み重ねでここまで来られました。なのでみなさんもぜひ「半歩の積み重ね」を大切にしてください。
Local Knot BackpackersのInstagram https://www.instagram.com/local_knot_bp/
幼馴染3人で地元のゲストハウスを事業承継。観光業を通して地方創生を目指す【前編】先輩起業家インタビューvol.8
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「東京で本業を続けながら長野に通う生活を始めたのは、地元を盛り上げたいという思いからでした。幼馴染の3人で、力を合わせてゲストハウスの運営に挑戦することになるなんて、夢にも思わなかったです。」
そう語るのは、長野駅前にあるゲストハウス「Local Knot Backpackers」を運営する藤澤厚太さん(ふじさわこうた)さん。幼馴染の堀内勇吾(ほりうちゆうご)さん、鈴木敦也(すずきあつや)さんと一緒に、まったくの未経験から事業承継による起業を果たしました。それぞれが本業と並行しながら地元長野で宿を運営し、地方創生に貢献するための挑戦を続けています。
インタビュー前編では、3人がそれぞれのキャリアを活かしながら「Local Knot Backpackers」を立ち上げるまでのストーリーや、スピード感が鍵となった事業承継による起業について聞きました。
<お話を聞いた人>
Local Knot Backpackers
■藤澤厚太/ KOTAさん
1997年生まれ。長野市/松本市出身。「人や組織の可能性を最大化する」ことをキャリアビジョンとして掲げて活動。ベンチャー企業で戦略/新規事業開発コンサルタントとして活動すると同時にCoach A Academiaを経てコーチとしても活動している。
■堀内勇吾/ UGOさん
1997年生まれ。松本市出身。大学進学を機に東京へ上京。大学在学中はゼミや学園祭実行委員、バイトに心血を注ぎ、密度の濃い学生生活を送った。大学卒業後は2020年に日本の大手総合化学メーカーへ入社。2023年11月にエンジニア人材サービス会社に転職。
■鈴木敦也/Tsuyaさん
1997年生まれ。松本市出身。高校卒業後、管理栄養士を目指し上京。大学在学中は資格勉強の傍ら、飲食店でのアルバイトや留学を通じ様々な「食文化」に触れてきた。現在は都内で管理栄養士として働いており、商品開発やマーケティングに従事。
「人々の想いが集まる場所」としてのゲストハウスを長野に作りたい
――まずはLocal Knot Backpackersの事業内容について教えてください。
藤澤さん:「Local Knot Backpackers」は、長野駅前にあるゲストハウスです。2024年の5月に、事業承継により「森と水バックパッカーズ」を引き継ぎました。3人とも東京で本業を続けながら、現地のスタッフと共に運営を行っています。現在は、地域の学生や若者を巻き込みながらDIYによる改修をしつつ、コンセプトのリブランディングを実行中です。
――ゲストハウスとは?
堀内さん:ゲストハウスというのは、旅館やホテルとは少し違い、旅人同士の交流を重視した宿泊施設です。例えば、「Local Knot Backpackers」の客室は、相部屋のドミトリーと個室の2種類となっており、共用部のリビングで他の旅人と自然に会話する機会がたくさんあります。ただ泊まるだけではなく、旅の途中で、自分と向き合う時間や他のゲストと深い会話が生まれるような環境作りを大切にしています。
長野は善光寺があり、古くから「人々の想いが集まる場所」です。僕たちは、その土地の力を活かしながら、このゲストハウスを「ジャーナリングするゲストハウス」として提供したいと思っています。
――「ジャーナリング」という言葉はあまり聞き慣れないのですが、どういったものですか?
藤澤さん:ジャーナリングとは、紙とペンを使って「今この瞬間に感じていること」を書き出すことです。頭に浮かんだことをそのまま書くことで、自分の感情や状態に気づけるんです。まさに「書く瞑想」とも言われるものですね。
鈴木さん:ここを訪れる人たちが、心の中を整理し、自分と向き合う時間を持てるようにすることが私たちの目標です。そのため、今後はノートやペンを常備し、ジャーナリングしたものを保管し、再訪した時に前回何を考えていたかを確認できる仕掛けを作れるように検討中です。また、他の旅人や、地域の方や観光客、私たちスタッフとの交流も促進し、自分の想いを語り合える場にしたいと思っています。
3人で旅をするの中で生まれた、「地方創生」への思い
――そもそも、皆さんはどのような経緯でゲストハウスの運営を始めることになったのでしょうか?きっかけを教えてください
藤澤さん:僕たち3人は松本出身の幼馴染で、それぞれ東京の大学に進学しました。上京後も自然と集まり、一緒に地方を旅行することが多かったんです。福島を旅行した時、みんなで湖のほとりのサウナに行ったのですが、外で深呼吸した瞬間がすごく印象的で。「やっぱり、自然の中で深呼吸するっていいよね」という話になり、「それなら地元・長野で何かやりたいよね」と考え始めたのがきっかけです。
堀内さん:あの瞬間は、僕たちにとって本当に大きな転機でした。それまでも「長野で何かやりたい」とは思っていたんですが、なかなか具体的なアイデアが出なくて。それが、福島での体験で「これだ!」と感じたんです。その後は、隔週でミーティングを重ね、「長野でゲストハウスをやろう」という方向性が固まっていきました。
――皆さん自身が、旅をする中できっかけを得たのですね。宿泊業以外にもいろんな選択肢があったと思いますが、どうして最終的にゲストハウスを選んだのでしょうか?
藤澤さん:方向性が固まるまでは、本当に試行錯誤の連続でした。最初は、古民家を改修して何かやろうだとか、地域の食材を活用した地産地消の商品開発も考えていました。実際に現場を見に行ったり、試作品を作ってみたりする中で、徐々に僕たちが目指すのは「地域経済や地方創生に本当に貢献できることがしたい」「深呼吸ができる場を作りたい」ということだと言語化できるようになりました。
そこで、人口が減少していく中で、地方を活性化させるにはインバウンドや外需が必要だと考え、旅行業に行き着いたんです。旅行業の中でも、宿泊施設はその核になると感じたので、ゲストハウスを選びました。
「森と水バックパッカーズ」との出会い
――最初から事業承継という形での起業を考えていたのでしょうか。
藤澤さん:いや、最初は古民家を使った宿泊施設を考えていたんです。でも、古民家は駅前にはほとんどないし、移動の利便性も考えて、駅前での運営が現実的だということになりました
そこから物件を探すうちに、事業承継のプラットフォーム「バトンズ」にたどり着きました。物件ごと引き継げる事業承継であれば、地方課題となっている空き家問題の解消や事業承継問題で困っている方の課題解決にもつながるなと。
――観光業で地方を活性化させたいという思いと、事業承継による地域課題の解決が結びついたわけですね。
藤澤さん:そうです。それに「深呼吸」というコンセプトも大きかったですね。自然の中での深呼吸も素晴らしいですが、僕たちは社会的なつながりの中でリラックスすることも重要だと思っていて。
「Local Knot Backpackers」という名前にも、そうした「社会的な結びつき」を大切にする意味が込められています。一棟貸しの古民家だと、そういった人々の交流が生まれにくいんですよね。ゲストハウスなら、ゲスト同士やスタッフとの交流が自然に生まれる。僕たちの目的に合う形だと感じました。
――たしかに、ゲストハウスならいろんな人との交流が楽しめますね。物件探しはすぐに見つかりましたか?
藤澤さん:いや、物件探しには時間がかかりました。数か月いろんな案件を見ていましたが、なかなか条件に合うものがなくて。でも、「森と水バックパッカーズ」を見つけたときは、直感的に「これだ!」と思いました。すぐに3人で現地を見に行き、「ここでやろう」と即決しました。
――その後の交渉や引き継ぎはスムーズに進みましたか?
藤澤さん:実は、僕ら以外にもう一人経験豊富な候補者がいたんです。でも、前オーナーの方が、体調が崩されていたこともあり、とにかく早い事業承継を希望されていて。僕らには経験も知識も資金もなかったので、「情熱とスピードで勝負しよう」と決めて、「1ヶ月で資金を用意します」と伝えました。その約束を守って、実際に1ヶ月後に引き継ぎに必要な資金を用意したんです。
――経験がない中でも、情熱と行動力でチャンスを掴んだというわけですね。
藤澤さん:はい。本当に情熱とスピードが鍵でしたね。
インタビュー後半は、実際に引き継いだ後の手応えや、本業を続けながら起業することにどう向き合ったのか、今後の展望についてお聞きしました。
Local Knot BackpackersのInstagram https://www.instagram.com/local_knot_bp/
徐々に社会に出ていく、働きはじめについて
県内全エリア
こんにちは!SSSWのコーディネーターをしている九里です◎
長野県の女性の創業・起業支援(Shinshu Startup Station Women:SSSW)は、
2023年度から始まり、個別相談員/メンターとしても2年目となります。
合同会社キキという会社を共同創業者と数人のスタッフと営んでいます。
個人と社会、こうありたいと思う日常を自らの手でつくりだすことが出来るよう仕組みや場所を整える会社として、#暮らし #学び #はたらくをテーマに、長野県内にて、さまざまな事業をおこなっています。
私たちは学生起業ということもあり、若い世代の「起業」「プロジェクト」の相談を受けることもありますし、これからキャリアを積んでいく若者、そこと繋がっていきたい地域の企業や個人からご相談を受けることが多くあります。
今回はそんな相談の一つとして、ずっと関わっていた矢野叶羽さんからお話をお聞きし、新しいキャリアの作り方だなと感じたので、皆さんにお伝えするコラムをと。
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矢野さんは、長野県立大学グローバルマネジメント学部4年生。
長野市を拠点に高大生・若者向けの「まなび対話コーディネーター」として場づくりの仕事をしています。
そんな彼女に、大学生と活動、働くことについてお話を聞いてみました。
まずは、最近お金という対価をもらいながら活動するようになっての感想を聞いてみました。
「働いているなあと感じます。お金をもらっていることも、もらってないことも、自然とお仕事と言うようになりました。バイトとも感覚が違います。」
「働いているというようになったのは、私に頼まれているという責任をもつ感覚になったから。」
とお話をしてくれました。「活動」から、「働く」に徐々にシフトをしている感覚のようです。
生き方・働き方を考えた時に、「自分のできる、やりたいことで働いていけるってかっこいいと感じていたこと」、「自分の住むまちで働きたいと思ったこと」と考えた時に、大学を卒業して、すぐにぽんっと社会にでてフリーランスや事業主として生きる自信はなかったから、徐々に社会というものに仕事をする人として出てみたんです、と図を交えながらお話をしてくれました。
社会に出ること/働くことは、学校で学んでいるときと途轍もなく乖離があると感じている人も多いはずです。
でも、そんなに大きく飛ばなくても、徐々に社会に出ていくことで、自分の目指したい姿に近づいていけるのではないか、と矢野さんのお話を聞いていて感じました。
もっともっと自然に「働くこと」に溶け込む選択肢を作ることで、社会全体で若い人たちや、これからもっと働きたい方々を包み込み、一緒に社会を作っていけるかもしれません。
長野だから乗り越えられた創業初期の壁。眼科に特化した人材サービスで医療現場の課題を解決【後編】先輩起業家インタビューvol.7
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「人材系のビジネスは、在庫等を抱える必要がない無形商材のビジネスモデルなので、場所を選ばずに展開できます。そのため、初期の段階から家賃の高い東京にオフィスを構えるのは無駄だと考え、地元である長野で創業することにしました。」
そう語るのは、眼科に特化した情報メディア、就職/転職サービスを提供する株式会社Contactを立ち上げた依田龍之介(よだりゅうのすけ)さん。視能訓練士を目指し医療系の大学で学ぶ中で、医療現場の人材採用の課題を肌で感じ、起業を目指すように。ビジネスの新規性と可能性が評価され、2022年に創設された長野県の創業支援ファンド信州SSファンドの投資先第一号にも選ばれました。
本社はかつて祖父が暮らした軽井沢町の家に置き、現在は東京・下北沢のシェアオフィスとの2拠点で働く依田さん。インタビュー後編では、長野での創業を選んだ理由や、創業初期の課題、今後の展望について聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社Contact 代表取締役 依田龍之介さん
長野県出身。大学院修士課程修了。視能訓練士。大学院在学中に研究・学会発表を行いながら、3歳児健診での弱視見逃し防止に関する事業で経産省が主催するジャパン・ヘルスケアビジネスコンテスト等に登壇。その後、医療系ITスタートアップに参画。2022年株式会社Contact設立。
創業コストを下げるため、東京から地元の長野にUターン
――インタビュー前編では、思い立ったその日に登記を済ませたとお話がありましたが、長野での起業を選んだのはどうしてですか?
結論から言わせていただくと、初期コストを下げたかったからです。人材系のビジネスは、在庫等を抱える必要がない無形商材のビジネスモデルなので、場所を選ばずに展開できます。そのため、初期の段階から家賃の高い東京にオフィスを構えるのは無駄だと考え、地元である長野で創業することにしました。
まずは登記を済ませてから、長野での創業支援やサポートを探しました。その中で、信州スタートアップステーション(以下、SSS)を見つけました。
――SSSでは、具体的にどのような支援を受けましたか?
一番最初にSSSに相談に行った際は、そもそも視能訓練士とは何かというお話から、慢性的な眼科の人材不足など、医療現場の課題や現状の説明をさせていただきました。そこから、どんな事業なら課題解決が実現できるのかの壁打ちをすると共に、実現のために必要な資金量と調達手段についても相談にのっていただきました。
――開業にあたって資金調達はどのように行いましたか?
「眼科に特化した就職/転職サービス」というのは、あまり一般的でないサービスだったこともあり、当初見積もった事業資金規模に対し、既存の金融機関から十分な融資を受けるのが難しい状況でした。
人材サービスというのは、実は免許事業で、創業にあたって厚生労働省から「有料職業紹介免許」という免許の交付を受けないといけないんです。そのためには約500万円の純資産が必要で。
――まだ事業が始まっていないうちから、それだけの金額を準備する壁は大きいですね。
はい。僕は当時まだ大学院生でしたし、創業のための初期費用で貯金をほとんど使い切ってしまっていたので、500万円という金額は自分では到底用意できないものでした。さらに、銀行の融資を受けられたとしても、融資は会計上は純資産にカウントされないため、免許取得には不十分だったんです。
資金調達の壁に当たるも、長野県の創業支援ファンド第一号に
――その課題はどのように解決したのですか?
本当に運が良く、僕が起業したちょうど数ヶ月後にSSSが創業支援のファンド「信州スタートアップ・承継支援ファンド」を創設したんです。ファンドからの出資であれば純資産扱いになり、免許の取得をすることができます。
SSS側から「こんなファンドがあるんですがどうですか?」とご提案いただき、早速手続きをすすめ、無事に投資先第一号にお選びいただけました。その後、2022年の6月には視能訓練士の働き方などの記事を配信するサイト「Contactメディア」を立ち上げ、免許取得後に眼科に特化した求人プラットフォーム、「Contactキャリア」をスタートさせました。サービス開始から約一カ月で、関東を中心に約20の医療機関の求人を受け付け、視能訓練士は約130人の登録がありました。
――いざサービスを立ち上げて、実際に軌道に乗り始めるまではどれくらいの時間がかかりましたか?
初期の頃はとにかく大変でしたね。事業が安定するまでは思っていたよりも時間がかかりました。一年ほどはとにかく毎日必死に目の前のことに向き合っていたと思います。
――軌道に乗るまでの時間は、どうやって乗り越えられましたか?
正直、今となってはあんまり覚えていないんです。全てのあらゆることを試し、少しでも可能性のあるものにはアクションをかけ、「あ、これだ」という手応えがあるものを手繰り寄せてつないでいったらやっと軌道に乗った、という体感です。
――以前SSSの相談員の方にインタビューした際に、成功する創業者の共通点は「何度もトライできるへこたれない人」というお話がありました。
もちろん、どちらかと言ったらつらかったですよ。でも、「起業をする」というのは自分で選んで自分で始めたことですから。僕は漫画の「進撃の巨人」が好きなのですが、漫画に出てくる「お前が始めた物語だろ!」というセリフで自分を鼓舞していました。
初期コストが抑えられる長野での創業。迷っている人はぜひ挑戦を
――改めて振り返っても、創業初期の場に長野を選んだのはいい選択だったと感じますか?
はい。何が一番良かったかというと、資金調達のハードルが低かったことです。長野には、県の創業窓口であるSSSがあります。そこで事業の可能性を感じてもらうことができれば、県内の金融機関等におつなぎいただけるというのは、新規創業者にとってとても心強かったです。
SSSを介さず、僕個人で金融機関をノックして融資の相談に行ったこともありましたが、当時の僕はまだ学生でしたし、事業としての実績もなかったため、門前払いされてしまうこともありました。ですが、「県のお墨付き」として、SSSの担当の方から「こんな起業家がいるんです」と紹介していただくと、最初の話を聞いていただく入り口がまったく違うんです。ドアが開いた感覚がありました。
――県の窓口があることで、信頼感が得られたと。
それから、東京とのアクセスの良さも大きな利点です。人材サービスというのはどこにいても展開できるビジネスモデルとはいえ、お客さんは東京の方が多いですし、支援してくださっている投資家や、起業家仲間も東京に多くいます。その点、軽井沢駅から東京までは新幹線で1時間弱で行けるので、東京でランチミーティングをして、夕方には家に帰ってくることができる。
もちろん交通費は多少かかりますが、東京で家もオフィスもかりるとなったらとんでもない額の費用が必要です。それならば、普段は軽井沢に篭って、必要なときにパッと東京に行く生活の方がよかったですね。現在、東京にもオフィスを置いているのは、創業当初よりも東京での仕事の機会が増えたからです。拠点を移したというよりは、二拠点を続けつつ、東京に比重を置いているという状態ですね。
――依田さんが今後挑戦していきたいことはありますか?
「医療分野の採用課題を解決する」という事業のコアは今後も変わりません。次のアクションとしては、大手の人材企業と事業提携をしていくことを目指しています。僕はどちらかというとゼロイチの人間なんです。アイデアを元に事業を立ち上げることが得意で、一から十に事業を成長させていくフェーズは、もっとその分野が得意な方にバトンタッチしていきたい。
なんとか、事業の仕組み自体は出来上がってきたので、ここからより大きく事業を成長させてくれる仲間と組んで、さらにサービスを大きく展開していきたいです。「Contactキャリア」は眼科医に特化した採用プラットフォームですが、ゆくゆくは眼科以外の職種にも展開していけたらと思っています。
――最後に、長野県での創業を考えている方向けのメッセージをお願いします。
商材を持たず、場所を選ばないビジネス展開を考えている方であれば、長野県での創業は本当におすすめです。僕は、長野県で創業して良かったと思っています。迷っている方には、ぜひ挑戦してほしいですね。
株式会社Contact https://corp.contact.ne.jp/
Contactキャリア https://contact.ne.jp/
長野だから乗り越えられた創業初期の壁。眼科に特化した人材サービスで医療現場の課題を解決【前編】先輩起業家インタビューvol.7
起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「医療系というのは、離職率が高い職種だと言われているのですが、そもそも就職の時点でミスマッチが起きているゆえに離職率が高いのではないかと考えたんです。それならば、この業界の採用や就職の仕方を変えることができたらとビジネスの方向性が見えてきました。」
そう語るのは、眼科に特化した人材サービス「Contactキャリア」を立ち上げた、株式会社Contact代表取締役の依田龍之介(よだりゅうのすけ)さん。
学生時代、眼科医に関する動画に心を動かされたことから、目の検査の専門家である視能訓練士の国家資格を取るため、帝京大学医療技術学部に進んだ依田さん。コロナ禍をきっかけに「IT×医療」の可能性に関心を持つようになります。
インタビュー前編では、医療分野に興味を持つようになったきっかけや、学生時代に感じた医療現場の課題、ビジネスの方向性が定まっていくまでのストーリーを聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社Contact 代表取締役 依田龍之介さん
長野県出身。大学院修士課程修了。視能訓練士。大学院在学中に研究・学会発表を行いながら、3歳児健診での弱視見逃し防止に関する事業で経産省が主催するジャパン・ヘルスケアビジネスコンテスト等に登壇。その後、医療系ITスタートアップに参画。2022年株式会社Contact設立。
眼科に特化した求人プラットフォーム「Contactキャリア」で採用ミスマッチを防ぐ
――まずはじめに、株式会社Contactの事業内容について教えてください。
株式会社Contactは、眼科に特化した就職/転職サービス「Contactキャリア」を開発・運営しています。「Contactキャリア」は、視能訓練士を採用したい医療機関と、就職・転職を考えている視能訓練士をつなぐサービスです。
また、眼科メディカルスタッフ(視能訓練士、 看護師、 医療事務、 眼科医等)に特化した情報を発信するオウンドメディア「Contactメディア」も運営しています。現場に即した正確な情報を提供するため、弊社専属の視能訓練士ライターによって記事が執筆されており、開設以来累計640000PVを突破しています。
――視能訓練士とは?
視能訓練士とは、眼科専門の検査技師です。医療業界は全体的に人材が不足していると言われているのですが、中でも視能訓練士は採用ニーズが高まっています。
一方で、視能訓練士の資格を持っていても、インターネット等で閲覧できる医療機関の求人情報が乏しく就職が困難になったり、採用のミスマッチが起きて短期離職につながったりという課題があります。株式会社Contactは、その課題を改善することで、視能訓練士をはじめとする眼科メディカルスタッフが勤務先に満足して働ける社会を目指しています。
――医療分野の中でも、依田さんが視能訓練士に興味を持ったのはどうしてですか?
高校生の頃から、医療系の分野に興味がありました。進路について考える中で、YouTubeである動画を観たんです。その動画は、色覚障害で色が認識できない方が、色覚矯正の眼鏡をかけて見える色鮮やかな世界に感動するというもので。少しミーハーですが、そこから「目って大事だな、眼科っていいな」と思うようになり、視能訓練士の資格が取れる大学に進学しました。
コロナ禍により見えてきた、「医療×IT×ビジネス」の可能性
――自分自身が視能訓練士として働くのではなく、視能訓練士のためのビジネス立ち上げを目指すようになったのはどうしてですか?
医療者でありながらビジネスの方向へ進み始めた一番最初のきっかけはコロナ禍でした。大学入学当初は、国家資格を取るために勉強していたのですが、コロナが始まってから実習が全て中止になってしまったんです。
「これからの医療はどうなっていくんだろう?」と立ち止まった時、「ITを使って何か医療を発展させることができないだろうか」と考え、行動し始めました。
――今後の医療がどうなるのか不安を感じたということですか?
不安というより、むしろ「眼科はオンライン診療やITと相性がいいのでは?」と可能性を感じたんです。
実習こそ中止になりましたが、眼科はコロナ禍前からIT化が進んでいたんです。眼科というのは、医療分野の中でも特に小さい「眼球」を扱います。たとえば、皮膚科の診療の場合は直接先生が患部を見る場合が多いと思うのですが、眼科の診療の場合は機械で眼の写真や動画を撮り、そのデータをもとに診察を行います。そのため、遠隔の診療になったとしても対面の診療とあまり変わらなかったんです。
――なるほど。そこから「眼科×IT×ビジネス」の可能性について考え始めたのですね。
とはいえ、ビジネスについての知識や経験はまだ無かったので、まずは医療系のIT企業でインターンシップを始めました。その中で、自分なりに「医療×IT×ビジネス」でできることを模索しました。現在の事業内容とは異なりますが、経産省が主催するジャパン・ヘルスケアビジネスコンテストで、スマホを使って子供の弱視を早期発見する事業について登壇したこともあります。
そうして動く中で、「ビジネスはあくまで課題解決の手段であるため、コアとなる課題を見つけないといけない」と感じるようになりました。そこで目をつけたのが、医療業界の人材不足でした。
医療現場の採用課題を解決したい。「今日起業しよう」と思い立った日にまずは登記を済ませた
――医療系の人材不足というのは、ご自身が医療系の大学で学ぶ中で身近に感じていた課題だったのでしょうか。
そうですね。僕自身は、大学卒業後に大学院に進学し、IT企業でのインターンを行った後に起業したので、いわゆる就活自体はしたことがありませんでした。ですが、学部時代の友人たちの就活の話を聞いていたら、就活のあり方の課題が見えてきたんです。
たとえば、一般的な大学生の場合は、大学三年生から就活をはじめ、四年生になる頃には内定が出ていますよね。でも、僕の大学の友人の中には、卒業の一ヶ月前から就活を始める人がたくさんいたんです。
――それはかなりギリギリですね。
そうなんです。視能訓練士は人材が全く足りていないので、それくらいから就職活動をしても仕事自体は見つかります。しかし、相性や条件がわからないままに入職してしまうので、就職後にミスマッチが起き、すぐに離職してしまう。
転職しようとしても、医療機関から出ている求人情報は内容が乏しく、給与や働き方など知りたい情報が得にくいとみんな悩んでいて。人材が足りていない業界で、せっかく国家資格を保持しているのに就職活動がうまくいかない。これは大きな課題だと感じました。
医療系というのは、離職率が高い職種だと言われているのですが、そもそも就職の時点でミスマッチが起きているゆえに離職率が高いのではないかと考えたんです。それならば、この業界の採用や就職の仕方を変えることができたらと「医療×IT×人材」というビジネスの方向性が見えてきました。
――起業を考え始めてから誰かに相談はされましたか?
起業を考え始めた初期の頃から、当時インターンしていた先の代表や、周りの知り合いには初期の頃から「医療×IT×人材」のビジネスがしたいという話をしていました。医療分野は課題が深く、課題が深いということはビジネスに転換しやすい。そのため、「なかなかいいところを突こうとしているね」と好意的な反応をいただけたと記憶しています。
――アイデアが固まってきてから、起業に至るまではどんなステップを踏みましたか?
「医療×IT×人材」でビジネスをすると決めたのが2022年の年始で、年始休み開けの1月5日ごろに司法書士の方に「起業の手続きがしたい」と連絡を入れ登記しました。「今日起業しよう」と思ったタイミングで、衝動的に動いてしまいましたね。当時はまだ大学院一年目でしたが、起業自体はそんなにハードルがなく、登記後に「さてここからどうしよう」と具体的に考え始めました。
インタビュー後編では、長野県で創業することのメリット、創業初期の課題や、これからの展望について聞きました。
株式会社Contact https://corp.contact.ne.jp/
Contactキャリア https://contact.ne.jp/