地域の資源で事業をつくる。地元で働きたい若者たちへの新たな道標、みみずやの挑戦【前編】先輩起業家インタビュー

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「一つ大きかったのは、地域の現状を目の当たりにしたことですね。例えば、農地がどんどん廃れていく光景や、年配の農家さんが体力的に農業を続けられなくなっている姿を見て、『自分たちが動かなければ、このまま何も変わらない』という危機感がありました」
そう語るのは、長野県飯綱町を拠点に地域課題の解決を目指す株式会社みみずやを運営する中條翔太(なかじょう・しょうた)さんと滝澤宏樹(たきざわ・ひろき)さん。農業や教育、廃校の活用など幅広い事業を展開しながら、地域の循環型社会の実現を目指しています。二人は異なるキャリアを経て、「今動くしかない」という決断のもと、わずか三ヶ月で創業を果たしました。
インタビュー前編では、地域と人をつなぐビジョンや、それぞれのキャリア、お二人が「みみずや」を立ち上げるまでの背景についてお聞きしました。
<お話を聞いた人>
株式会社みみずや
■ 中條翔太
1994年生まれ。長野県大町市出身。長野高専卒業後、重電機器メーカーでの勤務を経て、2019年の水害をきっかけにUターン。アスリート支援や飯綱町での廃校活用に取り組んでいた株式会社I.D.D.WORKSに参画後、2022年に滝澤さんと共に「みみずや」を設立。
■ 滝澤宏樹
1995年生まれ。長野県上田市出身。長野高専卒業後、信州大学繊維学部に進学。在学中から株式会社I.D.D.WORKSで地域事業に携わる。その後、地域資源を活用した新しい事業を模索する中で「みみずや」を設立。農業や廃校活用など、多角的な事業を展開している。
「みみず」のように地域を豊かにたがやす

――まずは株式会社みみずやの事業概要について教えてください。
中條さん:株式会社みみずや(以下、みみずや)は、飯綱町に拠点を置き、分野に囚われず結果的に地域課題を解決していく事業を展開しています。ビジョンとして「素直に生き、豊かさを紡いでいく」、そしてミッションとして「『みみず』のいる場が増える」を掲げています。みみずは、土を豊かにする循環の象徴でもあり、人々の心やコミュニティも同じように豊かにする存在です。この考えを軸に、地域資源を活用した事業を幅広く展開しています。
滝澤さん:もともとは私と中條の二人でスタートした会社ですが、設立から三期目を迎えた今、関わるメンバーが増え、それぞれが自分の得意分野を活かして事業を推進しています。これからはさらに仲間を増やし、地域の人々と一緒に事業を成長させていくフェーズに移行していきます。
――具体的にはどのような事業を行っているのですか?
中條さん:事業は大きく3つ、農業に関する事業と、地域に関する事業、そしてみみずに関する事業に分けられます。
まず、農業に関する事業では、有機栽培野菜の生産販売や、環境循環型農業資材の販売を行っています。ほかにも、例えば地域の遊休農地を活用し、さまざまなバックグラウンドを持つ方との「コラボファーム」という形で、農地を活用した新たなビジネスモデルも探索中です。
そのうちの一つが、元サッカー日本代表である石川直宏さんとコラボした「NAO’s FARM」です。アスリートをはじめとする多様な人々が畑に集まり、農業を通じたフラットなコミュニケーションから、自らのキャリアについて考えるきっかけづくりをおこなっています。
次に、地域に関する事業では、廃校をリノベーションしたフィットネスクラブ「Sent.」の運営を通じて、地域住民が健康維持と交流を楽しめる空間を提供しています。ほかにも、地域の企業と連携しながら、次世代の地域人材を育成するための取り組みも進めています。
最後のみみずに関する事業では、みみずを使って生ごみを土に還す「コミュニティコンポスト」を活用した地域循環デザインの構築や、飯綱町内外各地でみみずに関するワークショップを行っています。
――事業展開の幅広さに驚きました。「みみずや」が目指す方向性をもう少し詳しく教えてください。

滝澤さん:よくわからない会社ですよね(笑)。何をやっているのか一言で相談できないのが悩みです。僕のおばあちゃんは、僕が農家さんだと思っているくらいです。二人とも意味づけをするのが得意なので、相談事や依頼があったときにいい落としどころを見つけられるんです。だから、誰とでも協創ができますし、やることや手法には一切こだわっていないんです。結果として地域が良くなればいいと考えています。
中條さん:私たちは、事業を通じて地域課題を解決することを目指しています。そのため、課題に応じて柔軟に事業内容を変化させることを大切にしています。共通しているのは、「循環」と「つながり」という考え方です。『みみず』のように、環境や人々の間でのつながりを生み出し、それを持続可能な形で広げていくことが目標です。
キャリアの変遷の中で、「地域と向き合う仕事がしたい」という思いが芽生えた
――「みみずや」を立ち上げるまでのお二人のキャリアや、二人の出会いについて教えてください。

滝澤さん:私は1995年生まれ、長野県上田市出身です。子供の頃からドラえもんみたいなロボットが作りたくて、エンジニアを目指して長野工業高等専門学校(以下、高専)に進学しました。中條は、高専時代のサッカー部の先輩で、たまたま寮の同じフロアで生活をしていました。寮のお祭りの企画を一緒にしたこともあり、先輩後輩や友人関係というよりは、当時から仕事仲間みたいな付き合い方をしていましたね。卒業後も、定期的に会って話をしていました。
――エンジニアを目指していたところから、現在のみみずやの地域に関わる事業に至るまでは大きな違いがあるように感じます。どんな心境の変化があったのでしょうか。
滝澤さん:「ドラえもんを作りたい」というのは、「人の暮らしの役に立つ何かを作りたい」という思いが根っこにあったんです。ですが、高専で勉強をしていく中で、一体のロボットを作るには果てしない時間がかかるとわかって。そこで、自分にできることを考え直して、人の生活と密接に関わる素材について学ぼうと信州大学繊維学部に進学しました。
在学中に、アスリートのセカンドキャリア支援を通じて地域とつながる事業を展開している株式会社I.D.D.WORKSでインターンシップを行うようになったことから、「地元で楽しく暮らしたい」という思いが強くなりました。それと同時に、「仕事やお金」を理由に地元を離れる仲間が多い現実にも直面し、「地域やコミュニティに向き合う生き方」を真剣に考えるようになりました。
――中條さんのキャリアについても教えてください。

中條さん:私は1994年に長野県大町市で生まれ育ちました。自然の中で過ごす時間が多く、特に川遊びが大好きでした。その延長で、水やエネルギーに興味を持つようになり、高専に進学しました。高専卒業後は、関東の重電機器メーカーに就職し、発電所や変電所向けの機器開発に携わりました。
当時の自分は、出世や業務効率ばかりを考えていたのですが、2019年に起きた長野県の台風被害が大きな転機となりました。ボランティアで長野に戻ってきたら、私が関わった設備が水没し、一瞬で壊されている光景を目の当たりにしたんです。無力さを感じると同時に、相手の顔が見えないモノづくりを続けることへの疑問が湧いてきました。「もっと地域や自然、人とのつながりがもてる仕事をしたい」と思い、2020年に長野へ戻ることを決意しました。
滝澤さん:僕は、中條のような優秀な高専の卒業生が「仕事がないから」と長野を離れては、自分の仕事にモヤモヤしている状況にずっと違和感を感じていました。中條が当時の仕事に対して無力感を抱えていると聞き、僕が在籍していた会社の飯綱町の事業に誘いました。
中條さん:滝澤と一緒に、事業を通じて地域との関わりを深めていく中で、自分の情熱は「地域全体を巻き込んだ地域の活性化」にあることを再認識しました。
農業とどう向き合うか。会社との方向性の違いが独立の転機に

――お二人にとって、前職での経験が地域への思いを強くするきっかけとなったのですね。そこから二人での独立を選んだのはどうしてですか?
中條さん:前職では、アスリートのセカンドキャリア支援の一環として、農業を通じて地域とつながる活動をしていました。事業を通じて「地域にはまだ多くの可能性が眠っている」と感じる一方で、会社の主軸が「アスリート支援」に特化していたことから、もう少し広い視野で地域と関わりたいと思うようになりました。
滝澤さん:私も同様で、前職での経験を通じて、地域を豊かにするための多くの学びを得ました。だからこそ、より地域全体にアプローチしたいという思いが強くなりました。
――会社と社員という関係性の中で、会社の方向性に違和感を持つようになったのですね。そこから実際に二人で独立を決めるまではどのような経緯があったのでしょうか。

滝澤さん:2021年の9月から11月にかけて、社内で「今後事業をどうしていくか」という議論が始まったんです。その中で、自分たちが本当にやりたいことと会社全体の目指す方向性に違いがあることが明確になってきました。
中條さん:自分たちの軸は地域のあらゆる資源を活かした産業や人、仕組みづくりにあったので、この視点の違いが独立の決め手になりました。この視点の違いが独立の決め手になったんです。
――会社の目指す方向とは違う方向に進んでいきたくなったと。
滝澤さん:事業の方向性についての話し合いが行われたのは、年度末が近づいてきて仕事が区切られるタイミングだったので、「今を逃したら、また一年別の案件や仕事に追われてしまう」という感覚がありました。そこで「やるしかない」という結論に至りました。独立を決めてから実際に会社を設立するまでは約三ヶ月という短い期間で動きました。
中條さん:農業の現場に触れる機会が増えていく中で、農地がどんどん廃れていく光景や、年配の農家さんが体力的に農業を続けられなくなっている姿を見ていたので、「自分たちが動かなければ、このまま何も変わらない」という危機感がありました。それが創業を決意するきっかけになったと思います。
インタビュー後編では、実際に事業を引き継いで独立した後の手応えや、地域や農業に対する思い、今後の展望についてお聞きしました。
株式会社みみずやのホームページ
【女性の自立を応援】「就職・創業のための伴走型デジタルスクール 2024」 in 上田市 開催レポート
県内全エリア
上田市創業支援プラットフォームでは「就職・創業のための伴走型デジタルスクール 2024」
を令和 6 年 6 月から令和 7 年 2 月まで開催しています。
本デジタルスクールは2年目の開催となり、上田地域の創業または就職を目指す女性を対
象として、必要なデジタル技術や知識を身につけていただくものとなっています。
前年度に引き続き、創業・事業に役立つデジタルスキルを習得できる【創業コース】のほか、
今年度より新たに【就職コース】「事務職に活かせる3DCAD 講座」を追加いたしました。

今回は、現在開催中の伴走型デジタルスクール各コース内容についてご紹介させていただ
きます。
【創業コース】では、上田地域でご活躍中の講師 8 名による、創業・事業に活かせる 40 講
座を展開しています。
会場は+519worklodge(上田市技術研修センター)となっており、令和 6 年 12 月までに、
23 名の方にご受講いただきました。(※講座内容によっては、開催場所が異なる場合もござ
います。)
受講希望者様はお申し込み時に講座を1つ選択し、事務局の審査終了後に伴走型デジタル
スクール講座を受講することができます。ご担当いただく講師には、受講者様の事業内容や
今後の目標についてヒアリング後、オリジナルの講座内容を作成していただきます。受講期
間中は課題も出され、疑問点はその場で講師に質問することも可能です。
受講者様からは、ご自身の創業・事業に「学んだスキルを早速活かせる」「2 名 1 グループ
の講座で互いに切磋琢磨、自身の事業を客観視できた」など、ご好評をいただいております。

「就職コース」では、「事務に活かせる3D CAD 講座」を 2025 年 2 月 7 日(金)より 5 日間
(2/7(金)、2/14(金)、2/21(金)、3/7(金)、3/14(金))で開催します。
講座では、製造業などで幅広く使われている 3DCAD の基礎について学ぶことができます。
今回ご紹介いたしました伴走型デジタルスクールのメリットは、一人一人に合ったオリジ
ナルカリキュラムを講師から分かりやすく、直接学べることです。
デジタルスキルの向上はもちろん、受講者様同士、目標に向かって互いに成長ができるのも
少人数制の講座だからこその魅力だと考えています。
受講者の皆様には、学ばれたデジタルスキルを就職・創業に活かしていただくとともに、出
会った講師や仲間とのつながりを今後も大切にしていただきたいと思います。

まだ理想は叶っていない。だから、なんでも出来る。地元に「ないもの」を作り続ける「Kitchen & Bar SABO」の挑戦【後編】先輩起業家インタビューvol.12

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「やっぱり『ないものを作っていく』って面白いですよね。僕は、自分じゃなくてもやれることはやりたくないんです。『長野市でSABO2号店を出さないの?』とよく聞かれるのですが、僕は長野市で飲食をやりたいとは思っていないんです。だって、もうあるから。十分足りていると思うんです。僕は『ここにないから作りたい』ってマインドだし、ないからこそやりたくなる。」
そう語るのは、須坂市のカジュアルレストラン「Kitchen&Bar SABO」を営む株式会社SABO代表の関谷隆彦(せきやたかひこ)さんです。関谷さんは、学生時代から料理人を志し、東京の調理製菓専門学校へ進学。卒業後は東京で修行を積み、25歳で長野県にUターンをし、独立に向けて動き始めました。
インタビュー後編では、独立後の葛藤と気持ちの変化、今後須坂で挑戦したいことについて聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社SABO 代表・関谷隆彦
長野県須坂市出身。高校卒業後に上京し、調理の専門学校に通う。卒業後、都内の五つ星ホテルや町場のイタリアンで修行を積み、結婚を機に長野にUターン。長野市のレストランで勤務後、須坂のKitchen&Bar SABOのシェフに。当時のオーナーから店舗を譲り受け、店長となり、株式会社SABOを立ち上げる。
オーナー引継ぎ後に見えてきた理想と現実のギャップ

――インタビュー前編では、前オーナーからSABOを譲り受ける形で独立するまでの経緯をお聞きしました。自分のお店を持つようになってからは、自分の作りたい料理を出せるようになりましたか?
いえ、実際に自分でお店を経営していくようになってからは、理想と現実のギャップを感じました。最初の頃は、今でいう長野市の「Hanten」のようなスタンスで、カッコよく料理を出したかったんです。ですが、いざスタッフを抱えながらお店を経営する立場になると、長野市よりも田舎の須坂市でレストランをやるには、価格帯やお客さんの舌の肥え具合を考えるとどうしてもクオリティを調整していかないといけないという壁にぶち当たりました。
僕としては「良い食材を良いまま出したい」という思いがあったのですが、どれだけ気合いを入れて自分のいいと思う料理を出しても、注文が入らなかったらお金にならない。せっかくいい食材を仕入れたのにロスになってしまったり、既成の揚げ物を使わないと利益が出なかったり。そういう葛藤を経て、「自分が本当に好きな料理を出せればいい」という気持ちは少しずつ変わってきましたね。
――SABOに入った当初は「自分ならもっといい料理が作れる」と思っていたところから、お店を経営していく目線になり、現実が見えてきたと。
そうなんです。僕がおいしいと思ったものが、そのままお客様にもおいしいと捉えてもらえるわけではなかった。「前の方が良かったよね」と言われることもあり、「僕がクオリティに納得できずに提供していた料理の方が、お客さんには好まれるんだ」とショックを受けました。
――そのショックは、どうやって乗り越えたのですか?
ショックはショックでしたが、マイナスなものではなくて。「そうか、そういう人もいるのか」と勉強になりましたね。前向きに、「自分が本当に出したい料理はまたいつかやればいいや」と思えました。
ただ、「自分とは合わないからどうでもいいや」とはなりたくなかったので、新しいメニューを作ったり、スタッフを料理人として最低限のレベルまで育てよう、とは常に考えています。
――逆に、須坂市でお店を持てて良かったなと思うことはありますか?

たくさんありますよ!まずは自分の地元で子供にかっこいい姿を見せ続けられている、親孝行ができていることですね。それから、僕は今35歳なんですが、この歳になると今まで散り散りになっていた同級生が結婚したり子供ができたりして、定期的に実家に帰ってくるようになるんです。そうすると、やっぱりみんなSABOに来てくれるんですよ。長野に帰ってきてから約10年が経って、自分は元々そんな場所を地元に作ることを目指していたことを思い出せました。
「ここにないから作りたい」が自分の原動力

――ほかにはどんないいことがありましたか?
コロナをきっかけにテイクアウトとデリバリーの事業を始めたことも自分の中では大きな手ごたえがありました。須坂にはまだUber Eatsが入ってきていないので、僕を含めたスタッフが個人の車で直接お客さんのご自宅や職場に配達に行っています。お届けしたときの反応が直接見られるのはうれしいですね。
――コロナが落ち着いた今、スタッフ自ら配達に出るというのはお店にとっては負担ではないですか? どうして続けることにしたのでしょうか。
たしかに、今はテイクアウト・デリバリーの需要は下がりつつあります。ですが須坂市内には、足腰が弱ってなかなか買い物に出られなかったり、免許を返納して車を使えなかったりする高齢者のお客さんも多いんですよ。そういうおばあちゃんが、「孫が遊びに来るから」とSABOに電話で注文してきてくれるわけです。
ほかにも、うちは3000円以上の注文からデリバリーを受け付けていて、高齢のご夫婦の場合はどうしても量が多めになってしまうんです。でも、配達しに行ったときに「今日も明日もちょっとずつ食べるのよ」と言っていただけるとやっぱりうれしくて。地元の人のそういった声を聞くと、「あぁ、やめられないな」と思いますよ。
――それはうれしい反応ですね。須坂にまだなかったサービスを自分たちで立ち上げたからこそ、得られた声でもありますね。

やっぱり「ないものを作っていく」って面白いですよね。僕は、自分じゃなくてもやれることはやりたくないんです。「長野市でSABO2号店を出さないの?」とよく聞かれるのですが、僕は長野市で飲食をやりたいとは思ってなくて。だって、もうあるから。僕は「ここにないから作りたい」ってマインドだし、ないからこそやりたくなる。
――「ここにないから作りたい」が、関谷さんの原動力になっていると。

ここ数年の新しい取り組みとして、須坂の飲食店仲間や、地域おこし協力隊の仲間と、須坂市で「肉フェス」や「餃子フェス」といったイベントを開催しています。いずれは大規模な野外音楽フェスを須坂でやれたらと考えていて。
田舎だと、ライブハウスやクラブみたいな音楽に触れられる場所がない。須坂にいる子どもたちが、小さい頃から生の音楽に触れて、「俺の町にあいみょん来たんだぜ!」とか「こんなフェスがあるんだぜ!」と誇れるようになればうれしいなと。
理想の料理が出来ていないからこそ、可能性が広がっていく

――初めの頃の「自分の好きな料理を作れさえすればいい」という気持ちから、だんだん「須坂の町で新しいことをやっていきたい」という気持ちに変化していったのですね。
というよりも、「自分が本当に作りたい料理」を須坂でまだやれていないからこそ、「どうしたらできるかな」「誰とだったらできるかな」と少し俯瞰しながら探っているうちに、いろんな人に出会えて、「一緒に何か面白いことをやってみようよ」と話が広がっていったんです。その中で「人生一回きりなんだから、料理以外のことだって、やりたいならやっていいじゃないか」と思うようになれました。
――自分のやりたい方向性を探るうちに、新たな出会いがあって仲間もできて、新しい変化が起きていった。
もし、最初から須坂で自分のやりたい料理を貫けていたら、イベントなんて出来てなかったと思います。だって、それだと僕が常に店に立っていないとダメだから。スタッフが育ってきて、自分がいなくても店が回るようになったから、料理以外のことにも取り組む余裕が出来ました。その状態になるまでは大変でしたけどね!(笑)。まだ理想を叶えられていないからこそ、今こうして色んなことが出来てると思うと感慨深いですね。
――お店を投げ出さずに、スタッフを育てることに注力したからこそできることの幅も広がってきたのですね。

SABOの若いスタッフが自分のやりたいことを言ってくれるようになってきて、それに対して自分が「いいよ、やってみなよ」と言える余裕が出来たこともうれしいですね。
最近は、パティシエの子が「マカロンケーキのお店をやりたい!」と言ってくれたので、SABOとして須坂のチャレンジショップを借りてお店をやってみたんです。それが地元の方にかなり好評で! 本人も、お店の経営は思っているよりも簡単じゃないことを知れただろうし、これだけ努力して時間も費やして作ったマカロンがたかが600円にしかならないという辛さも味わえたと思うんです。
ポンと独立していきなり店を構えるのは難しいと思うので、まずは僕がサポートした上でSABOの一部門として挑戦してもらい、そこから独立につなげていった方がいいのかな、と今は考えていて。
――そうしてSABOスタッフの挑戦が続いていったら、須坂がどんどん面白くなりそうですね。最後に、これから長野で起業したい人へのメッセージをお願いします。

一番は、諦めないことだと思います。辞めないこと、続けること、それだけ。何か一つだけでも「辞めていないこと」があれば自分の自信になると思うんです。
あとは、周りに見ていてくれる人がいることが大事だと思います。「あいつ、なんだかんだずっとやってるよな」って見守っていてくれる人。それが仕事であろうと趣味であろうと、何かを続けることが大事なんだと思います。
起業をする人って、どこかちょっとバカというか、周りと違う人が多いと思うんですが、その「自分は人と違うかも」という気持ちは大事にした方が良いと思います。時には自分の気持ちを隠して人と合わせることも大事だけど、なかったことにして完全に合わせちゃうのは違うと思うから。その気持ちを消さないでください!
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まだ理想は叶っていない。だから、なんでも出来る。地元に「ないもの」を作り続ける「Kitchen & Bar SABO」の挑戦【前編】先輩起業家インタビューvol.12

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「いつか自分でレストランをやりたいとは思ってはいましたが、それは店を持つこと自体が目的ではなくて。僕はただ、誰にも何も言われずに自分の好きな料理が出せればよかったんです。」
そう語るのは、須坂市のカジュアルレストラン「Kitchen&Bar SABO」を営む株式会社SABO代表の関谷隆彦(せきやたかひこ)さんです。関谷さんは、学生時代から料理人を志し、東京の調理製菓専門学校へ進学。卒業後は東京で修行を積み、25歳で長野県にUターンをし、独立に向けて動き始めました。
インタビュー前編では、料理人としての修行を積んだ東京時代、地元へのUターンを決めるまでの経緯について聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社SABO 代表・関谷隆彦
長野県須坂市出身。高校卒業後に上京し、調理の専門学校に通う。卒業後、都内の五つ星ホテルや町場のイタリアンで修行を積み、結婚を機に長野にUターン。長野市のレストランで勤務後、須坂のKitchen&Bar SABOのシェフに。当時のオーナーから店舗を譲り受け、店長となり、株式会社SABOを立ち上げる。
須坂駅前のカジュアルイタリアン「Kitchen&Bar SABO」

――まずは株式会社SABOの事業について教えてください。
株式会社SABOは、須坂駅前でカジュアルレストラン「Kitchen&Bar SABO」を経営しています。「Kitchen&Bar SABO」は誰でも気軽に入れるカジュアルなお店です。高価格すぎず、かといってリーズナブル過ぎるわけでもない。デートでも飲み会でも、家族との食事でも、様々なシーンでご利用いただけます。
料理のジャンルはイタリアンがベースです。ランチはピザ・パスタがメインで、サラダが食べ放題・ドリンクも飲み放題です。オープン当初、須坂市にはサラダ食べ放題のお店がなかったのでこのシステムにしました。ディナーでは、お肉や魚、お野菜のメニューもあります。スイーツにも力も入れており、オーダーケーキも人気です。

2022年からは、須坂市の飲食店で初のテイクアウト・デリバリーも始めました。現在は須坂店の一店舗のみの営業ですが、今後は業態に関わらず、須坂を中心に長野県で様々な事業を展開していきたいと考えています。
――もともと、いずれは自分のお店を持ちたいという思いがあったのでしょうか。
はい。僕は須坂市出身で、料理の道を目指し始めたころから、「いつか、地元を離れた友達が帰ってくる場所を須坂に作りたい」という思いがありました。
僕自身も、調理師の専門学校に入るために一度上京し、東京で修行を積んでから須坂に帰って来てSABOで働き始めたんです。SABOはもともと、別のオーナーが経営していた店舗だったのですが、独立を考え始めた頃に前オーナーに「このままSABOをやらないか」と言っていただき、そのままオーナーを引き継ぐ形で創業しました。
東京での修行を経て、結婚を機に長野にUターン

――東京で修行していた頃のお話を教えてください。
専門学校卒業後は、六本木にある高級ホテルの結婚式場のレストランで働いていました。そこでは、思い描いていた料理の仕事と現実のギャップを感じましたね。
――どんなギャップがあったのですか?
とにかく人が多いので、ほとんど料理というよりも作業なんですよ。たとえば、火曜日に葉っぱを千切り、水曜日に食材を切って、木曜日はそれを炒める。金曜日に全部形にして、土日に結婚式をやる、といった流れでした。
有名なホテルだったので、名前を出せば「えっ、そこで働いてるんだ!」と周りからは良い反応をされる。でも実際は、お客さんの顔も見えないまま、何になるかも分からない葉っぱを千切る毎日で。つらかったですし、「料理の仕事をしている」と胸を張って言えませんでした。三年目になる頃に「このままでいいのか?」と焦りを感じ、ホテルに了承をいただいた上で町場のイタリアンレストランでもアルバイトを始めました。
――ホテルで働きながら、アルバイトも。
はい。ホテルの仕事が終わったあとに、レストランで料理の経験を積む、という生活を一年くらい続けました。そこで飲食業界のツテができたので、ホテルを辞めて、恵比寿の客単価が2万円を超えるような良いレストランで働かせていただくことが出来ました。当時の経験から、今でも「レストラン」というのが僕の料理の主軸になっています。約二年半そこで修行させていただいて、24歳で長野に帰ってきました。
――20代前半と、まだ若いうちにUターンすることを決めたのはどんな理由があったのでしょうか。
そんな大それたことではなくて、人間らしい理由ですよ。実は僕は、18歳で上京して以来、長野市にいる彼女とずっと遠距離恋愛をしていたんです。ずっと「いつ帰ってくるの?」「帰って来ないなら私が東京に行く」と言われていたんですが、「修行中の身で東京に来てもらっても責任が負えないしなぁ」と決めきれずにいました。
24歳になる頃に、とうとう彼女から「結婚するか別れるか決めて」と提示をされたんです。そこでようやく、「いずれ長野に帰ってお店を持つつもりなら、長野と東京じゃニーズも違うだろうし、早いうちに地域のニーズを知っておいた方がいいだろう」と覚悟を決めることにしました。そうして長野に帰って来て彼女と結婚をし、お店を持つ準備を始めることにしたんです。
自分ならもっといい料理が作れる。そう意気込んで地元に飛び込んだ

――帰ってきてから実際に自分のお店を持つまでは、どのような経緯がありましたか?
正直な話、当時は須坂にまだいいお店がなくて。最初は長野市のレストランで1年半ほど働かせてもらいながら、長野の客層や飲食業界事情を学びました。そのうちに、SABO須坂店がオープンしたので、こちらに移ってきた形です。
――「ここだったら働いてみたい」と?
初めは、「須坂に新しいイタリアンのお店ができたんだ!」と思って、とりあえず食べに行ってみたんです。昔からよく通っていた道だし、お客さんがすごく入っていてうれしい気持ちもあって。
でもいざ行ってみたら、正直自分としては「須坂ではこういうお店が受けるの?」とどこか違和感を感じたんです。今だから言える話ですが、「俺だったらもっとおいしい料理が作れる!」と思って、SABOに入ったんですよ。
――なるほど。そういった理由だったんですね。

SABOに入ってからは、まずは店の料理を覚えながら徐々に自分のスタイルを出しつつ、年々ポジションを上げていきました。4年目で店長を任せられるようになってからは、自分の好きなやり方を試してみようと思い、現在のSABOにつながる「レストランよりリーズナブルかつ同等のクオリティの料理を提供する」というスタンスのカジュアルなイタリアンにしていきました。
そこで「これなら自分でお店ができる」と手ごたえを感じて、独立しようと決めたんです。当時のオーナーに話をしたら、「どうせ須坂で独立するつもりなら、このままSABO須坂店を君にあげるよ」と言われて。
――そこで「自分で立ち上げたい」とは思わなかったのですか。
思いませんでしたね。もちろん悩みはしましたよ。でも、「自分で店をやりたい」と思ってはいましたが、それは店を持つこと自体が目的ではなくて。僕は、誰にも何も言われずに自分の好きな料理が出せさえすればよかったんですよ。だから、SABOの売り上げやお客さんを手放してまで一からやる意味はないなと。
周りからは、「せっかく自分でやるのに、前のオーナーがつけた名前のままでいいの?」とよく言われましたが、僕としてはむしろ名前を変える意味が分からなくて。今の名前で須坂市内で知名度があるんだし、それを捨ててまで自分を貫き通す必要があるかな?と。
だから、2023年に個人事業主から法人化をした時も、社名はそのまま「株式会社SABO」にしたんです。法人化自体は、税金の問題もありましたし、今後多店舗展開を目指す上で必要だったのですが、特に自分で考えた会社名にしたいとは思わなくて。性格的に、そういう部分は全然気にならないんです。とにかく僕は、自分の好きな料理を提供できさえすればそれで良いんです。
インタビュー後編では会社を引き継いでから見えてきたギャップや、仲間と一緒に須坂を盛り上げていきたいという思い、今後の展望についてお聞きしました。
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SSSコラム⑪長野県における起業家の資金調達
県内全エリア
担当:SSSコーディネーター森山
SSSコーディネーターの森山です。
2024年も残すところわずかになりましたが、今年最後のコラムとして長野県内における資金調達についてご紹介したいと思います。
起業・創業を目指す方、すでに事業を営んでいらっしゃる方々にとって、その事業に資金が必要なのは共通の事項かと思います。長野県内には様々な資金調達手段がありますので、今回はその方法と、それぞれの特徴についてご紹介させて頂きたいと思います。
SSSにご相談いただく方々が資金調達で活用される選択肢は、主に以下の5つに大別されており、これらを複数組み合わせて必要資金を確保する方もおられます。
- 自己資金(含親族・友人からの資金)
- クラウドファンディング(以下、CF)
- 金融機関からの融資(県の制度融資、各金融機関の融資)
- ファンドからの出資(信州SSファンド)
- 国・県・市町村・経済団体等からの補助金等
まず事業に必要な資金がそれほど多くない事業を予定されている場合、①の自己資金を活用するケースがあります。自己資金のメリットは、自分自身の資金でリスクをとっているため、誰にも何も言われない自由があることです。また、ご自身が想定している事業内容・事業計画資料を作成して第三者に説明する必要もありません。(事業計画の作成は慣れていないと、人によっては結構大変なこともあります)
一方で、②~⑤は全て自分以外の第三者の資金を活用するため、事業内容をそれぞれの資金調達方法や資金調達コストに見合った形で、説明する必要があります。その手間暇やコストの見返りとして、自己資金では賄えないようなリスクや事業規模に対応することができるようになります。
第三者からの資金としての②CFは、活用ケースが多い購入型を前提として簡単に触れさせて頂きます。(その他、株式投資型等の形態もあり)購入型のCFでは、自社の商品やサービス、またはその一部等を提供する(または提供を約束する)見返りに、一般に広く資金を募集する方法です。主に商品やサービスを目的として資金を提供するユーザーと、その事業自体を応援する気持ちで資金提供を行うユーザーが存在します。これらのユーザーに対する、自社商品・サービスの認知度向上や、前売り、顧客の囲い込みなどを目的としてCFを活用するケースが多いように思います。一方で、CFによる資金調達コストは、他の調達手段よりも比較的高く、主にサービス利用の手数料は調達金額の10-20%程度が相場です。この調達コストに見合うメリットが得られると判断できれば、資金調達手段の有力な選択肢になるかと思います。
次の③金融機関からの融資は、多くの個人・法人が利用する資金調達方法かと思います。今回は創業・起業を目指す方々に多く活用いただいている創業融資を簡単にご紹介させて頂きます。長野県には創業5年未満の方が利用できる、「信州創生推進資金(創業支援向け)」という融資制度があります。これは金利が基本的に1.1%に設定されており、比較的低コストで資金を確保できる手段として、多くの事業の有力な選択肢となりえるかと思います。
(ご参考:長野県中小企業融資制度(信州創生推進資金(創業支援向け))/長野県)
その他、県内の各金融機関においても、それぞれ融資を行って頂いておりますので、上記融資制度とともに比較検討頂ければと思います。
そして、④ファンドからの出資(信州SSファンド)については、資本出資が主であるため、他の資金調達方法と比較して調達コストは高くなる一方で、他の調達方法では対応できない高リスクの事業に対して資金を供給することが可能です。(※投資対象は株式会社に限ります)他の資金調達方法で十分な資金が確保できなかった場合、①~③、⑤との組み合わせも当然可能ですので、信州SSファンドからの出資も含めてご検討頂ければと思います。
(ファンドや資本出資について詳しく知りたい方はSSSへ是非ともご相談ください)
(ご参考:信州スタートアップ・承継支援ファンド(信州SSファンド)/長野県)
最後に⑤補助金等による資金ですが、こちらは自治体や経済団体が提供するケースが多く、基本的に返済不要の資金です。そのため、多くの起業家の方々がその活用を検討されることも多い資金調達方法の1つです。ただ、補助金等の支給にあたっては様々なルール、制約等がありますので、それらにご自身の事業が適合する場合は是非とも活用を検討頂ければと思います。(制約等例:審査があり必ず利用できるわけではない、審査用の提出書類が多い(=作成コストがかかる)、経費の1/2,2/3分を支給(全額ではない)、一旦自社で立替し年度末に支給、特定の費用項目・用途にのみ対応、特定の時期のみ募集、特定のビジネス・形態にのみ支給等)
なお、各自治体や経済団体が設定する補助金の対象範囲、申請方法などの詳細については、設定する自治体または経済団体へご確認いただければと思います。
以上、長野県内で主に活用できる資金調達方法をご紹介させて頂きました。今回ご紹介させて頂いた資金調達方法にご興味・ご関心ある方は、それぞれの資金供給者に直接ご連絡頂いても良いですし、もし迷われていたり、更に詳しく知りたい方はSSSにご相談いただければ、事業内容・リスク・ステージに合った資金調達方法を探すお手伝いをさせて頂きますので、お気軽にご連絡頂ければと思います。
以上
SSSコラム⑩信州での観光業・宿泊業の起業にあたり
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担当:SSSコーディネーター佐藤(中小企業診断士)
こんにちは、SSSコーディネーターの佐藤です。
(※本コラムの内容は執筆者個人の見解であり、長野県やSSSの公式見解ではありません。)
皆さん、最近はどこかに観光で訪れたり、旅館ホテルなどに宿泊されましたか?
旅の目的や誰と行くのかによっても、訪れる場所や泊まる施設の選び方は様々かと思います。またBtoCビジネスである観光業・宿泊業は、それを営む事業者自身も一顧客となり得るため、起業にあたっては「自分だったらどういう体験や価値提供を受けたいか」という顧客視点に立ってサービス内容等を考えることもできるのではないでしょうか。
信州は美しい自然環境や歴史的な観光名所など、豊富な地域資源がある場所として知られています。その魅力を活かした観光業・宿泊業のビジネスは、多くの創業希望者にとって魅力的な選択肢となっており、SSSにおいても観光・宿泊関連のご相談を多くお受けします。以下に、創業にあたり抑えておきたいポイントをご紹介します。
まず、ビジネス計画の作成が重要です。事業の目的やビジョン、ターゲット市場(物理的な場所を含む)の分析、競合状況の把握など、具体的な計画を立てることが成功の基盤となります。信州の観光業・宿泊業は競争が激しいため、差別化戦略や独自の価値提案を考えることも重要です。
次に、資金調達の方法を検討しましょう(詳しくは「資金調達」のコラムを参照)。新規創業の場合、銀行からの融資や地方自治体の支援制度を活用することが一般的です。また、事業承継という手法もあります。ゼロイチではなく、既存の宿泊施設等を買収するなどの方法もあります。検討にあたっては「事業承継・引継ぎ支援センター」や民間のM&Aプラットフォーム(TRANBIやBATONZなど)を利用することも有用です。
さらに、地域との協力関係を築くことも重要です。地元の観光協会や商工会議所などの組織と連携し、地域の特産品やイベントとのコラボレーションを図ることで、地域の魅力を最大限に引き出すことができます。また、地元の人々との関係を築くことも大切であり、信頼関係を構築することで地域の支持を得ることができます。
マーケティング戦略の構築も欠かせません。信州の観光業・宿泊業は季節によって需要が異なるため、需要の波に合わせた戦略を立てることが重要です。例えば、冬季はスキーリゾートや温泉旅館への需要が高まるため、その時期に合わせたプロモーションやイベントを企画することが有効です。
創業希望者は、信州の地域特性や需要動向を十分に調査し、自身のビジネスアイデアに合わせた戦略を練ることが重要です。
信州の観光業・宿泊業は、地域の魅力と資源を最大限に活かしたビジネスが求められています。自然環境や文化遺産を活用した体験型プランの提供や、地元食材を使用したグルメツアーの企画など、地域の特色を生かしたサービスを提供することが成功の鍵となります。また、最新の技術やインターネットを活用したマーケティングや予約システムの導入も重要です。
先ほども書いた通り、信州は四季折々の美しい景色や豊かな自然があり、多くの観光客・宿泊客が訪れます。しかし、競争も激しいため、ビジネスの差別化、「尖った」サービス・顧客体験価値の提供が求められます。例えば、バリアフリー対応の宿泊施設やペット同伴可の宿泊施設、サウナも楽しめる施設など、ニーズの多様化に応えるサービスを提供することで、競争力を高めることもできます。
またオペレーション面からも事業コンセプトを検討することも重要です。コストとのバランスの中で、「表は非効率」だけど「裏では徹底した効率化」を目指すのかなど、どこに人手を掛けるのか・掛けないのかのメリハリをはっきりさせることです。
長野県では、信州スタートアップステーションをはじめ、スタートアップ支援・起業創業支援のコーディネーターや相談員が活動しており、創業希望者への支援を行っています。これらの専門家の助言やアドバイスを受けることで、より確かなビジネス計画や戦略を立てることができます。また、地域の商工会議所や観光協会などの組織も、創業希望者に対して支援プログラムや情報提供を行っていますので、積極的に利用しましょう。
信州の観光業・宿泊業ビジネスは、地域の魅力を最大限に引き出し、訪れる人々に素晴らしい体験を提供することが求められます。観光地の開発や宿泊施設の運営は、地域の活性化にも大きく貢献することができます。また観光業・宿泊業ビジネスは顧客の反応がダイレクトに感じられる(打ち手の効果の有無もダイレクトに分かる)ため、非常に面白さがある業種だと思います。個人的には、マーケットインのアプローチも重要ですが、サービス業として創業者自身が「面白い・楽しいと思えること、自身の施設などを使って『遊ぶ』姿勢」を持って様々な特徴あるサービスをプロダクトアウトのアプローチで提供することも必要なのではと思います。
創業希望者の皆さんが、信州の観光業・宿泊業ビジネスの創業に成功し、地域経済の発展に貢献いただくことを願っています。
【SSSW コラム】改めまして、SOUのご紹介と2024の振り返り
県内全エリア
長野県では、「日本一創業しやすい県づくり」を目指し、相談窓口での相談・助言、ホームページやFacebook等による創業支援策などの情報提供、各種創業セミナーの開催、地域の支援機関と連携による支援を行っています。
信州スタートアップステーション(SSS)は、長野県が設置する創業支援拠点です。SSSは、金融機関や商工団体等の創業支援に携わる機関や先輩起業家との連携によるスタートアップエコシステムの中核となり、県内経済を担う次世代産業の創出を目指す拠点です。
SSSの中で、女性に特化した支援活動を、ということで立ちあがったのがSOU(ソウ)です。
「それぞれの女性の、それぞれの起業に。」をかかげ、起業・創業にハードルを感じている方や、事業アイディアのブラッシュアップしたい方など起業に関する相談をはじめ、仕事と家庭・子育てとのバランスで今後の働き方に悩んでいる方など、幅広く女性を支援をしています。
SOUの活動は、大きく分けて2つあります。
ひとつめは、メンタリング(個別相談)です。様々な働き方、生き方を実践している多様なメンターが数多くの相談を受けてきました。2024年度は県外からの相談者が多かったことが特徴です。Iターン、Uターンを見越して「あたらしく始めたい!」という方々のサポートができました。また、1度の相談だけでなく、複数回、中長期的な相談が増えてきました。「異なるメンターとのメンタリングにより、いろいろな視点に気づけた」という話もありました。
ふたつめの活動は、イベントやセミナーです。SOUとしてのイベントだけでなく、メンターのみなさんとコラボ企画としてのイベントも開催しました。イベントでは、参加者のみなさん同士の交流を大事にするなど、地域のコミュニティとなるよう取り組んできました。結果として、イベントを通じて顔見知りになり、応援しあうような関係性も生まれています。
SOUでは、「事業を起こす」ことだけを起業とはしていません。1人ひとりが、それぞれの生き方を体現するきっかけをつくり、伴走してきました。
2025年も、多くの女性が自分の生き方を体現できるよう、支えていきたいと思います。
一匹の犬との出会いが人生を変えた。犬とのよりよい暮らしを求めた移住が創業のきっかけに【後編】先輩起業家インタビューvol.11

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「僕はこれまで、自分が好きなことだけをやって生きてきたタイプなので、パートナーである朋ちゃんにも、人生をかけてわくわくできることを見つけてほしいと常日頃思っていました。彼女がやりたいことを見つけて、長野で実現するチャンスを得られたことをとてもうれしく思っています。」
そう語るのは、愛犬と家族の絆を深めるための複合施設「JAZZY DOG(ジャジードッグ)」をオープンした小林朋紀(こばやしともき)さんのパートナーである小林雅也(こばやしまさや)さん。一緒に夢を叶えるため、2023年に家族で神奈川県横須賀市から長野県長和町に移住してきました。
インタビュー後編では、長野移住を決めた経緯や創業の道のり、実際にサービスを始めてからの手ごたえと今後の展望について聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社JAZZY DOG 代表・小林朋紀さん
猟犬の保護犬を家族に迎えた事をきっかけに犬ついて学び始める。「命を放棄しない、させない社会づくり」を目指して自宅で保護犬を預かり、新しい家族に繋げる活動をする上で、新しい家族のもとで人も犬もより幸せになるためには、自分自身がより知識を深め成長する必要を感じ「スタディ・ドッグ・スクール認定ドッグトレーナー」「米国CCPDT認定ドッグトレーナー(CPDT-KA)」を取得。犬達が生き生きと走り回ってる姿に魅了され、自分も自然に身を置きたいと考え2023年より長野県小県郡長和町に移住。犬たちの自由と福祉を第一に考え、学び続けながら犬たちとの信頼関係を深めている。
犬たちのため、家族の夢のために長野への移住を決意
――インタビュー前編では、神奈川からの移住を考え始めた経緯をお聞きしました。犬たちにとってよりよい環境を求めての決断とはいえ、家族で拠点を移すことには抵抗がなかったですか?

雅也さん:僕はこれまで音楽の仕事をメインに場所を選ばない働き方をしていたので、拠点を移すことは問題ありませんでした。それに、これまでは僕のやりたいことに朋ちゃんがついてきてくれていたので、今度は朋ちゃんがやりたいことを一緒にやっていこうと。
朋紀さん:長男はちょうど全寮制の学校に入ったタイミングでした。次男は転校が必要でしたが、彼自身も小さいころから犬が好きだったので、「犬のためなんでしょう」と納得してくれました。
――中でも長野を選んだのはどうしてだったのでしょうか。
朋紀さん:場所を探す上で、自然が豊かな広い土地があること、季節問わず十分に外で遊ばせられるように夏は涼しく冬は雪が少ないことが理想でした。長野は涼しいイメージがあったので、本格的に移住を考え始めた時点で自然と候補に挙がりましたね。長野と言っても広いので、積雪が少なく涼しい東信エリアに絞り込んで探していきました。
雅也さん:その中でたまたま今の土地を見つけて。長和町は山奥だけれど、国道が通っていて岡谷インターからも近い。旅先でドッグランに困った人も気軽に立ち寄れるだろうと思い、即決しました。そこから本格的にどうやって移住をするのか考え始めました。
――まずは理想的な土地を見つけたのですね。そこから移住や創業はどのように進んでいったのでしょうか。
雅也さん:まずは、内閣府の移住創業支援のホームページを見つけました。そこから長野県の担当窓口に問い合わせをしたところ、担当の方がとても親身に話を聞いてくださって。さらに、僕たちの目指す犬との暮らしのあり方は地域課題解決につながる可能性があるため、「ソーシャル・ビジネス創業支援金」の制度が使えるかもしれないと教えていただいたんです。
朋紀さん:そこで調べてみたところ、長野県でもやはりブリーダーの崩壊や多頭飼育崩壊は問題になっていることがわかってきて。そういった問題を地域で解決していくためには、人々の犬に対する意識を変えていくための啓蒙活動が必要です。その一環として、まずは誰でも気軽に利用できて、収益化もしやすいドッグランを作ることから始めようと構想が固まってきました。
それまでは、ただ「長野で犬と暮らしたい」という思いで動いていましたが、そこで初めて「自分たちが何をやりたいのか、何を目指しているのか」を人に伝えていかないといけないんだと一気に現実味が増してきました。そこから本格的に事業計画をまとめ、県にプレゼンテーションを行って無事に採択していただき、移住と創業のチャンスを得ることが出来ました。
タイムリミットがある中、急ピッチで移住と開業を実現
――採択後は、具体的にどのように移住や事業化を進めたのでしょうか

朋紀さん:創業・移住の支援を受ける条件として、期限内に住民票を移して事業をスタートさせる必要がありました。保護犬活動を行うためのNPO法人と、ドッグランやドッグホテルの運営・チャリティーグッズの販売等で収益化を目指す株式会社をそれぞれ立ち上げ、とにかく急ピッチでドッグランの工事に取り掛かりました。
雅也さん:自分たちの住まいに関しては、大型犬の多頭飼育をしていたため賃貸は厳しいぞと。かといって、自分たちで土地を買って家を建てる時間もなかったので、まずは空き家バンクを探して、たまたま山の中にぽつんとした一軒家を見つけたんです。オンボロだったけれど、直せばなんとか住めそうだったのでそこを買い取り、ドッグランの工事と並行して約一か月間神奈川から長野に通い、DIYで改修しました。
――時間的なリミットがある中での急発進だったのですね。

朋紀さん:はい。今思えば、一気に進めることが出来たのでリミットがあってよかったです。それから、「ソーシャル・ビジネス創業支援金」事業の一環である県からの伴走支援も心強かったです。
採択前の相談支援では、担当の方がいつも「私たちが何をしようとしているのか」を言語化するための質問を的確に投げてくれたので、思いだけで先走ることなく客観的な目を持ちながら、やるべきことややりたいことを整理していくことができました。採択後も、支援の一環として五年間の伴走支援を受けられるため、つい先日も建設中の施設を見学に来てくださいました。
――実際にドッグランの運用を始めてみて、利用しに来る方の反応や手応えはいかがですか?
朋紀さん:「こういうサービスがなくて本当に困っていた」と言っていただいたり、これまでのびのび外を走ったことがなかったワンちゃんが夢中で走り回ったりしているところを見るとやっぱりうれしいですね。
今はまだ施設の建設や犬のトレーニングに手いっぱいで、プロモーションやマーケティングまで手が回っていないのですが、社会に必要とされているサービスだという手ごたえがあるので、まずは口コミで利用者の輪が広がっていけばいいなと思っています。
――今後の展望や、挑戦したいことについて教えてください。

朋紀さん:まずは、現在建設中のドッグホテルとシェルターを完成させて、事業を軌道に乗せたいですね。日本は震災や台風などの自然災害が多い国です。でも、そういった際に大型犬を預けられる環境はまだまだ整っていない。災害に限らず、急な事故や病気で一時的に犬を預かってもらわないといけなくなるかもしれません。のびのびと遊ばせられる場所に加えて、なにかあった時に安心して預けられる場所を一つ持っておくことは、大事な犬やその後の犬との暮らしを守ることにつながります。
また、長野という土地を生かして、ジビエのお肉をドッグフードに活用し、さらに無添加の餌を食べた犬の糞を肥料にして野菜を育て、またドッグフードの素材にするなど、資源が循環する仕組みも模索していきたい。
やりたいことはまだまだたくさんあります。地域のいろんな企業とタッグを組みながら発信力や影響力をつけていき、最終的には、犬の正しい知識と飼い方、そして「命を捨ててはいけない」ということをしっかり社会に伝えていけるようにしたいです。
――最後に、これから長野で新しいことに挑戦しようとしている方に向けたメッセージをお願いします。

朋紀さん:なんの後ろ盾もない中での長野での創業でしたが、長野県の方々たちが私たちのやりたいことを「面白そう、いいね」と受け入れてくださり、創業支援をしていただけたことがうれしかったです。だからこそ、自分たちの描くイメージをしっかり実現して、応援してくださった長野県の方に「JAZZY DOGに長野に来てもらってよかったな」「あの人たちの活動がきっかけで、長野県の動物福祉が前進した」と思ってもらえるところまで目指していきたいと思っています。
雅也さん:僕はこれまで、本当に自分が好きなことだけをやって生きてきたタイプなので、パートナーである朋ちゃんにも、人生をかけてわくわくできることを見つけてほしいと常日頃思っていました。彼女が自分の内側から湧いてくる「やりたいこと」を見つけて、長野で実現するチャンスを得られたことをとてもうれしく思っています。僕のように「パートナーのやりたいことを実現するために移住を決める」というパターンも幸せなんじゃないか、ということを世のご夫婦に伝えたいです。
株式会社JAZZY DOGのホームページ
特定非営利活動法人JAZZY DOG LIFEのホームページ
一匹の犬との出会いが人生を変えた。犬とのよりよい暮らしを求めた移住が創業のきっかけに【前編】先輩起業家インタビューvol.11

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「正直、まさか自分が起業するなんて思っていませんでした。すべてのきっかけは、一匹の犬に出会ったことなんです。」
そう語るのは、神奈川県横須賀市から長和町に移住し、ドッグパーク「JAZZY DOG(ジャジードッグ)」をオープンした小林朋紀(こばやし・ともき)さん。朋紀さんは、元猟犬の保護犬を引き取ったことから、ドッグトレーナーの勉強を始め、犬の保護活動に取り組むようになりました。活動を通し、安心して犬を預けられる施設の必要性を感じたことをきっかけに、愛犬との絆が深まる複合施設の立ち上げを目指すようになります。
インタビュー前編では、朋紀さんの挑戦を応援する夫の雅也さんと一緒に、事業の概要、保護犬との出会いから生まれた夢、長野移住を決めた背景について聞きました。
<お話を聞いた人>
株式会社JAZZY DOG 代表・小林朋紀さん
猟犬の保護犬を家族に迎えた事をきっかけに犬ついて学び始める。「命を放棄しない、させない社会づくり」を目指して自宅で保護犬を預かり、新しい家族に繋げる活動をする上で、新しい家族のもとで人も犬もより幸せになるためには、自分自身がより知識を深め成長する必要を感じ「スタディ・ドッグ・スクール認定ドッグトレーナー」「米国CCPDT認定ドッグトレーナー(CPDT-KA)」を取得。犬達が生き生きと走り回ってる姿に魅了され、自分も自然に身を置きたいと考え2023年より長野県小県郡長和町に移住。犬たちの自由と福祉を第一に考え、学び続けながら犬たちとの信頼関係を深めている。
大型犬対応!大自然の中で安心してのびのび遊べるドッグラン

――まずはじめに、株式会社JAZZY DOGの事業について教えてください。
朋紀さん:私たちは、長野県長和町を拠点に、「愛犬との絆が深まる」ことをコンセプトとした愛犬と家族のための複合施設「JAZZY DOG」を運営しています。
第一歩として、2023年に小型犬から大型犬まで受け入れ可能なドッグランをオープンしました。2025年の春には、ペットホテルや保護犬のシェルターもオープンする予定です。ゆくゆくはドッグフードや犬用玩具を扱う売店も設けていきたいと考えています。
――「JAZZY DOG」のドッグランにはどんな特徴がありますか?

雅也さん:「JAZZY DOG」のドッグランでは、約2000㎡の広大なフィールドを完全貸切でご利用いただけます。ドッグランは森の中にあるため、鳴き声を気にすることなくのびのびと犬を遊ばせることができます。また、高さ2メートルの返しをつけた特別製のフェンスで周りを囲っているので、大型犬でも脱走の危険性なく安心してご利用いただけます。
また、予約・受付から全て完全無人でご案内しており、365日24時間、1時間単位からご利用いただけます。人見知りや怖がりな犬でも、思う存分家族だけの時間を楽しんでいただけるドッグランです。
――大型犬に対応しているドッグランというのは少ないのでしょうか。
朋紀さん:まだまだ少ないと思います。私たち自身、20キロほどの大型犬を二頭飼っているのですが、一般的なドッグランや「ワンちゃんOK」と書いたコテージ等の宿泊施設でも、柵が低めのところが多く、完全に野放しするのはどうしても心配になります。また、貸し切りでないタイプのドッグランの場合、小型犬の飼い主さんに怖がられてしまうことも多く、肩身の狭い思いをすることもありました。
――せっかくのおでかけや旅行でも、何かあったらどうしようと気が休まらないですね。
朋紀さん:犬種によっては、鳥や動物を見つけると走って追いかける習性を持っている犬もいます。そうでなくとも、思い切り走り回らせてストレスを発散させてあげることが必要です。飼い主さんとワンちゃんの絆を深めるという意味でも、ドッグランは有効だと考えています。
「JAZZY DOG」ではドッグトレーニングのサービスも行っています。犬と人間が一緒に楽しく暮らす上では、人間が「犬の習性」について理解すること、そして犬が「人間の社会」について理解することが大切です。「JAZZY DOG」では、そのどちらも大切にし、トレーニングを通じて、家族と愛犬それぞれが、お互いを尊重しあえるコミュニケーションづくりをサポートしています。対面のほか、出張・オンラインまずはカウンセリングを行い、お悩みや愛犬の性格に合わせたトレーニングのプランをつくっていきます。
保護犬譲渡会での運命の出会いが人生を変えた

――朋紀さんが「JAZZY DOG」のサービスを立ち上げた経緯を教えてください。
朋紀さん:正直、まさか自分が起業するなんて思っていませんでした。「犬が大好きで、いつか犬に関わる仕事がしたかった」というわけではないんですよ。すべてのきっかけは、今の愛犬に出会ったことなんです。
私たちはもともと神奈川で暮らしていました。10年ほど前にチワワを一匹飼っていたのですが、子供たちが幼い時に亡くなってしまって。それ以来犬は飼っていなかったんです。でも、子供たちが小学3年生と6年生になったときに、また「犬と暮らしたい」と言い出して。正直、当時の私は「やっと子育てが落ち着いてきて自分の時間が持てると思ったのに、犬の世話なんてとてもできない」と思ったんですよ。ちょうどその頃に、知人から保護犬の譲渡会のお誘いをいただいて。
――当時、保護犬についての知識はあったのですか?

朋紀さん:全くなかったです。とにかくいろんなワンちゃんたちがいるだろうから、行くだけ行ってみようと家族で足を運んだんです。そこで、猟犬種のワンちゃんたちと初めて出会って。「こんなにかっこいい子たちが、どうして捨てられてしまうんだろう?」と衝撃を受けました。
雅也さん:子供たちより、朋ちゃんがそこにいた犬に一目ぼれしてしまったんですよ。それでうちで引き取ろうということになって。ですがその子は、「イングリッシュポインター」という犬種で、大型犬な上にもともと猟犬として育てられていたので家庭犬にするのがとても難しい犬でした。そこで彼女が「かわいいだけじゃ無理だ」と早めに気づいて、ドッグトレーニングの勉強を始めたんです。
――実際に自分が保護犬を引き取ったことから、保護犬や犬のトレーニングに興味を持つようになったのですね。
朋紀さん:はじめは迎えた犬と自分たち家族のために勉強をし始めたんですが、30代後半になってから改めて何かを勉強するってとても面白くて。当時、私はパートタイムのお仕事をしていたのですが、あくまで家計のためでやりたい仕事というわけではありませんでしたし、趣味も特になかったんです。気が付いたら、本格的にドッグトレーナーの資格取得を目指すようになりました。
――犬のために始めた勉強が、自分のためにもなっていったと。
朋紀さん:そのうちに、「預かりボランティア」という保護活動があることを知ったんです。「預かりボランティア」というのは、保護犬を一時的に引き取ってお世話やトレーニングをし、新しい飼い主さんにつなげる中継地点の役割です。自分たちで犬を引き取ることにはどうしても限界がありますが、その形であればたくさんのワンちゃんを幸せにできるだろうと思い、個人で活動を始めました。
犬たちにとってよりよい環境を求めて長野へ移住

――最初は個人的に保護犬活動を行っていたのですね。そこから現在の事業の形につながっていったのはどうしてですか?
朋紀さん:トレーニングの勉強をするにつれて、犬の扱いがわかるようになり、もっとたくさんの犬を迎えることができそうだという実感があったんです。特に、噛み癖や吠え癖などの問題があってなかなか保護されない犬たちを積極的に救いたいという思いが強くなってきました。問題がある子や大型犬、猟犬ほど、発散のための運動が必要になるんです。ですが、当時私たちは神奈川の住宅街に住んでいたので、思い切り走らせてあげられる場所もなかったですし、鳴き声も気にしないといけませんでした。
大型犬、元実猟犬は運動量も必要で、犬によってはほかの犬と一緒にお散歩に行けないことも多く、順番に散歩をしていると20km以上歩く事もザラで、1日が散歩で終わってしまう。これでは、住宅街に住んでる意味はあんまりないなと思うようになって。
それならば、自分たちで自然の中の土地を買い、自分たちの専用ドッグランを作って生活したいと考えるようになりました。
インタビュー後編では、長野での創業の道のり、実際にサービスを始めてからの手ごたえと、今後の展望についてお聞きしました。
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【SSSW コラム】 ”想い”を事業にしていく力
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11月21日(木)のランチタイムに「想いを事業にする力」というテーマで、オンラインセミナーを開催しました。
ゲストは、登録者数10万人超のYouTubeチャンネルを運営し、株式会社ステアーズの代表取締役でありクリエイティブ・ディレクターの寺田真弓さん。「想い」をどのようにビジネスとして形にしていくかを寺田さん自身の経験をもとにお聞きしました。
寺田真弓さんは、長野県長野市のご出身で、2021年にUターンし、生まれつき障害のある夫と4歳の息子と暮らしています。2018年からYouTubeチャンネル「寺田家TV」を運営し、登録者数は10万人を超えたこともある寺田さん。また、YouTube運営の他に、障害や福祉を軸にSNSコンサル、動画制作、イベント運営などの事業を展開しており、最近では「みんきゅ〜プロジェクト」を立ち上げ、ユニバーサルツーリズムの普及に取り組んでいます。今回のオンラインセミナーでは、夫のユースケさんとの出会いや、47都道府県をヒッチハイクで回る企画、YouTubeチャンネルの運営、事業の立ち上げなどについて詳しくお話をお聞きすることができました。
特に、チーム作りや人を巻き込む方法について、ご自身の経験を基に具体的ですぐに実践できそうなお話しをして下さったのは、印象的でした。想いが強いほど「自分でやらなきゃ」「自分でやりたい」と思いがちですが、チームのメンバーに任せてみたり、「どうしたらいいかな?」と相談を投げかけることによって、自分ごと化してもらったりなど、実践的な内容をお聞きすることができました。寺田さんがご参加された「信州ベンチャーサミット※」についてもお話があり、そのときの様子を知る参加者からも「想いが伝わってきたピッチだった」とコメントがありました。
また、現在実施されているクラウドファンディングを通じて「みんきゅ〜プロジェクト」の資金調達を行っていることや、五カ国語で書かれた絵本「ほんとうにだいじょうぶ?」の制作秘話も伺いました。絵本もクラウドファンディングのリターンとしてご用意されていますので、ぜひウェブサイトをのぞいてみてください。
最後には、ご自身の経験を通じて、想いを事業にすることの重要性や、人生は一度きりであるからこそ大事にしたいというメッセージをいただきました。
信州スタートアップステーションウーマン(SOU)は、起業・創業にハードルを感じている方や、事業アイディアのブラッシュアップしたい方など起業に関する相談をはじめ、仕事と家庭・子育てとのバランスで今後の働き方に悩んでいる方など、幅広く女性を支援をしています。個別相談をご希望の方は、Facebook/Instagram、またはメール(info.ssswomen@gmail.com)までお問い合わせください。
次回は1月にオンラインでのトークイベントを予定しております。ぜひチェックしてみてください!
※信州ベンチャーサミット:信州スタートアップステーションが開催するベンチャー企業を対象としたピッチイベント。
詳細はこちら
職業、遊び人。どこにでも行ける旅人が、なぜ長野をベースに選んだのか【後編】先輩起業家インタビューvol.10

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「遊んで暮らそうといざ無職になってみたら、無職って思ったより暇だったんだよね。当時俺は38歳で、周りに同じペースで遊べる同年代もいなかった。じゃあ仕事した方が楽しいかもしれないなと、次は何がしたいかなと考えて、ゲストハウスを作ることに」
そう語るのは、長野市善光寺表参道沿いにあるカフェ、バー、レストランを併設したゲストハウス「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」、異世界サウナ「SAMBO SAUN」を経営する辻和之(つじかずゆき)さん、通称サンボさん。
インタビュー後編では、オープン10年でゲストハウスへ業態を変えた理由や、長野を拠点としている理由、現在の働き方・暮らし方について聞きました。
<お話を聞いた人>
合同会社GIANT KILLING 代表辻和之さん
1976年生まれ、大阪出身。18歳からフリースキーを始め、夏は大阪、冬は長野の雪山に篭る2拠点生活を約10年間行う。2005年に長野市に移住し、タイ料理とアジアン雑貨の店「Asian Night Market」をオープン。2015年にはカフェバーを併設した「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」としてリニューアルオープン。2023年には店内の一部を改装し、異世界サウナ「SAMBO SAUN」をはじめる。
オープンから10年の節目で無職になるも、「仕事をした方が楽しい」と気がついた

――インタビュー前編では、長野でタイ料理とアジアン雑貨のお店「Asian Night Market」を始めるまでのお話を聞きました。現在はゲストハウスを運営されていますが、業態を変えたのはどうしてですか?
「Asian Night Market」は、オープン当時の俺が作りたいと思って作った店だったけど、オープンから時間が経てば立つほど自分の中では「かっこいい店」じゃなくなっていて。お客さんからはよく「内装がすごい」と言ってもらっていたんだけど、自分はそうは思えなくなってきた。それがずっとひっかかっていて。
――自分にとって「かっこいい」かが大事だと。
最初の店をDIYで作った関係で、東京のゲストハウス「Nui.」の内装工事を手伝いに行ったり、いろんな建物を見たりする中で、「Aian Night Marketはもう全然俺の中のベストじゃない」と思っていたんだよね。
ちょうどその頃にスタッフが途切れて、立ち上げ当初と違って資金も十分にあったから、しばらくは遊んで暮らして、お金がなくなったらまた新しいことでもしようかなと思って10年目のタイミングで一度店を閉めました。
――潔い決断ですね。
でも、いざ無職になってみたら無職って思ったよりも暇で。当時俺は38歳で、周りに同じペースで遊べる同年代もいなかった。「じゃあ仕事した方が楽しいかもしれないな」と思って、次に何がしたいか考えて、ゲストハウスを作ることにしました。
実は、もともと長野に来た頃からゲストハウスを作りたい気持ちはあったんだけど、当時長野市にはバックパッカーもほとんどいなかったし、ゲストハウスがメジャーな商売ではなくて。でも10年の間に長野にも観光客が増えたしゲストハウスも出来てきた。
でも、自分みたいなハードな旅人が泊まるような宿はなかったから、今度は長野にいながら旅気分でいられるような場所を作ろうと「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」(以下、Pise)をオープンしました。前やっていた店と同じようなことしようと思わなかったのは、世の中の流れが変わってきたことも大きいね。
野生の勘に従って業態を大きく転換。時代の流れに乗ることが出来た

――世の中の流れというのは?
「Asian Night Market」をオープンした頃は、まだ日本が豊かで、タイは物価が安かったんだよね。だから、タイで安く買ってきたものを日本で高く売ることが出来た。でも、10年の間にタイはめちゃくちゃ発展して、逆に日本は全然発展しなかった。毎年タイに行くたびに、成長や変化を見続けてきて、このまま同じビジネスモデルを続けるには厳しくなるだろうなという予感があった。
実際に、今はもうほとんど物価の差がないし、逆に日本が「物価が安い国」になって、バックパッカーも含めた海外からの観光客が一気に増えたよね。コロナ禍は想定外だったけど、最近はもうかなり海外からのお客さんが戻ってきた。海外からくる人にお金を落としてもらった方が、事業として先に続くんじゃ無いかって。
――お金の流れを転換したと。
そういうこと。仕入れ先も、相手するお客さんの客層も完全に変えました。「Pise」をオープンした頃は、完全に野生の勘で決めたことだったから裏付けはなにもなかったけど、あれから10年が経ってやっぱりそうなったなと思ってる。
――サウナの事業を始めたのはどうしてですか?

コロナの間、「Pise」にはバックパッカーより日本人のお客さんや長野県内のお客さんが増えて。そういう若い子たちによく『サウナ作ってください!』と言われてはいたんだけど、俺は自分が好きじゃないものは作れないから断ってた。
当時の俺にとってのサウナのイメージは「健康のためにみんな黙って熱さに耐える場所」で、何がいいのかわからなかった。でも、2022年の秋にアウトドアフェスの手伝いに行ったらサウナブースがあったから、試しに入ってみたんですよ、そうしたら、みんな飲みながら楽しく話をしていて、いい汗が出てきたら外に出て、夜風を浴びながら外気浴。これがすごく良くて。
サウナに入っただけで、一緒にいた人たちとすごく仲良くなれたんだよね。これは、コミュニケーションツールとしてすごくいいなってイメージが変わった。だから自分でも作ることにした。実際にフィンランドとエストニアも旅して、本場の文化を取り入れながら形にしたよ。
どこにでも行ける旅人が、なぜ長野をベースに選び続けるのか

――そういった背景があったのですね。それだけ旅好きで、フットワークも軽いサンボさんが、長野に拠点を持ち続けているのはどうしてですか?
正直、そもそも長野に移住したつもりはないんだよね。あくまで遊ぶためのベースをここにした、という話。俺は、住むところは世界中含めてどこでもいいんだけど、だいたいすぐに飽きちゃうんだよね。
コロナの間は、タイに一ヶ月滞在してゴルフ三昧な暮らし方をしてみたこともあるんだけど、いい生活ではあったけどルーティンになってくるとつまらなかった。とにかくベースはどこでもよくて、今は自分が好きだと思える自分の店が長野にあって、長野がいい感じだからここがベースになってる。
――「いい感じ」というのは?

俺は恐らく日本一ペースが早い大阪で生まれ育ったから、それに比べると長野はのんびりしてるんだよね。仮に大阪で、当時の遊びながら働く生活スタイルのまま「Asian Night Market」を始めていたらすぐに潰されちゃったと思う。でも長野なら、遊びながら稼ぐスタイルでも、周りの人の倍動けば余裕で生き残ることができた。つまり、そういう意味で楽ができる。
――その「楽さ」は、長野にきた20年前と今でも変わっていませんか?
商売のやり方を確立しているから、慣れという意味の楽さかもあるかもしれないね。今は、ペースを落として、24時間を24時間として動いても十分暮らしていけるから楽だね。もう、20代の頃みたいに人の二倍のスピードで動く歳ではなくなってきてる。記憶がなくなるくらい働き倒すみたいなことを、48歳になった今またできるとは思っていない。体力が落ちているのか落ちていないのかわからないけど、考え方も変わってきたし。
たとえば、コロナでお客さんが減ったタイミングで、宿泊のチェックインのシステムを完全に無人でも対応できるようにアップデートしたから楽になった。カフェバーも、メニューの量も減らして、自分一人でも回せるようになった。昔はとにかく稼がないとと思っていたけど、今は繁忙期と閑散期の波も分かってきたから、赤字もないし焦らずにやっていければと思えるようになったね。
――最後に、今後長野で新しいことや好きなことを始めてみようとしている人へのメッセージをお願いします。
会社にいればお金を貰える方が楽な人はサラリーマンをやればいいと思うし、自分のチョイスで好きな方向に舵取って進みたいなら独立したらいい。どっちが偉いとかじゃなくて、どっちが好きか。ガーっと稼いでガーっと休む働き方は、サラリーマンだとなかなかできないよね。全部自分でチョイスして、お金も時間の使い方も自分で即断即決できるのは強みだよ。
俺が20代の頃は、リモートワーク的にどこでも働ける感じじゃなかったけど、どこでも働ける人なら長野はかなりいいんじゃないかな。朝起きて雪山に滑りに行って、夕方から仕事ができる。そういう風に働いていてもやっていけるよ。

WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Piseのホームページ
SAMBO SAUNのホームページ
職業、遊び人。どこにでも行ける旅人が、なぜ長野をベースに選んだのか【前編】先輩起業家インタビューvol.10

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。
「職業、遊び人。俺は仕事中心じゃないから、遊ぶために稼いでる。今のゲストハウスの仕事は楽しいし好きだけど、ゲストハウスをやることが夢だったわけではなくて。長野をベースとして住むにあたって、日本にいながら旅気分で楽しく過ごせるようにこの場所を作った。」
そう語るのは、長野市善光寺表参道沿いにあるカフェバー、レストランを併設したゲストハウス「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」、異世界サウナ「SAMBO SAUN」を経営する辻和之(つじかずゆき)さん、通称サンボさん。
スキーがきっかけで、地元大阪と長野の二拠点生活を始めたサンボさんは、27歳で長野に移住。「遊びながら稼いで旅をする」生活を実現するために、タイ料理とアジアン雑貨の店「Asian Night Market」をオープンしました。
インタビュー前編では、遊びを仕事にしていく働き方、長野で独立するまでのストーリーを聞きました。
<お話を聞いた人>
合同会社GIANT KILLING 代表辻和之さん
1976年生まれ、大阪出身。18歳からフリースキーを始め、夏は大阪、冬は長野の雪山に篭る2拠点生活を約10年間行う。2005年に長野市に移住し、タイ料理とアジアン雑貨の店「Asian Night Market」をオープン。2015年にはカフェバーを併設した「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」としてリニューアルオープン。2023年には店内の一部を改装し、異世界サウナ「SAMBO SAUN」をはじめる。
「儲からなくてもいいからやりたいこと」を続けるうちに、それが仕事になっていった

――まずはサンボさんが現在行っている事業について教えてください。
独立して仕事を始めたのは2005年、28歳の時でした。もともとは、「Asian Night Market」というタイ料理とアジアン雑貨の店を長野市善光寺の近くで始めて、今は同じ場所でゲストハウス「WORLDTRECK DINER & GUESTHOUSE – Pise」を運営しています。現在はスタッフを雇っていないので、自分で接客をするし、併設したカフェバーで調理とバーテンダーもしています。2023年には、店内の一部を改装して、「SAMBO SAUN」というサウナの営業も始めました。
どの店も、仲間を集めつつ自分でDIYして作りました。大工の仕事で県内外に呼ばれることもあります。ほかにも、もともとはプロのスキーヤーですし、そこから派生してカメラマンも。長野に来てからは、狩猟免許を取得したので猟師としても活動しています。夏場は花火職人。旅人として世界中を旅して、買ってきたものを日本で販売するバイヤー的な動きも20代の頃から続けています。一番最近行ってきたのはアフリカ。約一ヶ月間かけて9460キロを車で運転し、10か国を周りました。
――猟師に花火師まで!幅が広いですね。自分の好きなことを仕事にしてきたイメージでしょうか。

いや、俺は別に好きなこととかやりたいことを仕事にしているわけじゃなくて。もちろんイヤなことはしていないけどね。利益がどうとか考えずに、日々「これがやってみたいな」と思ったことをしているうちにそれが仕事になった。
仕事になったころには、次のやりたいことが生まれているから、また「儲からなくてもいいからやりたいこと」をしているうちにそれがまた仕事になって、また次、また次と回してきただけです。
だから、職業サンボ・遊び人。俺は仕事中心なタイプじゃないから、遊ぶために稼いでる。よく、「二号店を東京に作ってください」とか「店舗をプロデュースしてください」って相談を受けるんだけど、俺はビジネスに興味がないから全部断ってる。遊ぶためのお金があればいいし、自分が遊べない場所を作る意味がないからね。
フリースキーに出会い、長野をベースに遊びながら稼ぐ暮らしをスタート

――現在の遊びながら働くスタイルに至るまでの経緯を教えてください。
学生の頃から20代の半までは、夏の間は大阪でバーテンダーをやったり派遣営業の仕事をしたりしてお金を貯めて、冬は長野の雪山にこもってひたすらスキーをして無一文になる、そんな暮らしをしていたね。
高校生の頃までは、地元の関西の強豪校でアメリカンフットボールに打ち込んでいて。大学進学でアメリカンフットボールをやめてから、たまたまフリースキーを知って夢中になって、それから長野に滑りに来るようになった。当時、フリースキーはまだ競技として確立していなかったから、自分が「かっこいい」と思う滑りが出来るのが面白くて。
――先ほどスキーも仕事の一つだとお話がありましたね。
冬の雪山で滑っていたら、たまたまやってきたプロの撮影クルーの目に止まって、スポンサーがつくようになりました。スキー板やアパレルブランドの広告塔として滑ったり、海外に渡ってスキー撮影をするようになったんですよ。そこから、被写体として自分もカメラのことをわかっていた方がいいだろうとカメラを始めたら、次第に写真の仕事も増えて。
でも、スキーも写真も、クオリティとしてはプロを超えるレベルでやるけれど、お金を稼ぐという意味では別に仕事にしたくなくて。滑りたいように滑る、撮りたければどこまでも行く。そういう自分でいられるようにしたいなと思ってる。
――旅を始めたのも、カメラやスキーがきっかけですか?

初めての旅はフリースキーのフロンティアと言われていたアラスカで、そこからはずっと海外の雪山ばかりに行っていました。そしたら、知り合いから『そんなに海外に行ってるなら、買い付けを手伝って欲しい』って言われて、そこからタイをメインに雑貨の買い付けもするように。
当時はもう大学を卒業していて、夏の間は大阪で通信回線の営業の仕事をしていたので、金曜日の仕事終わりに空港へ向かってタイに飛び、週末に買い付け、日曜日の夜行便で帰ってきて月曜日の朝に買い付けた商品を渡し、そのまま営業先へ出勤、みたいな暮らしをしていました。かなりのハードスケジュールだったし、買い付けで得られる給料といった給料は無し。それでも楽しかったから全然よかった。
――本格的に長野に拠点を移したのはどうしてですか?
自然の中で遊びつつ、遊びと両立してお金も稼ぐことを考えたら、お店をやるのがいいかなと思って。18歳の時からずっとスキーのために長野に通っていたから、長野を選んだのは自分の中では自然な流れでした。
それから、ひたすら稼いで貯金を使い果たしてまた稼ぐ、みたいな生活は28歳までにしようと決めていました。カート・コバーン、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョップリン、有名なロッカーたちは27歳で死ぬでしょ? 生き方を変えるぞって決めて、長野に来たんだよね。
自分の行きたい場所がないなら作ろう。長野での事業のはじまり

――長野にやってきた当初の仕事として、飲食店と雑貨屋を選んだのはどうしてですか?
当時の自分の持っているアイディアとお金の量で出来て、かつ勝算のある事業の形がそれだった。
俺は、きっちりした内装で、日本人向けの味付けの料理を出す店よりも、タイのリゾート地にあるような、現地のお母ちゃんが作った料理が食べられるお店が好きでね。当時の長野にはそういうお店がなかったから、自分で作ることにしました。それが「Asian Night Market」です。
――長野に拠点をおく上で、自分が欲しい場所がなかったから自分で作ったと。

長野市内でもともと蔵だった古民家を借りてね。当時はまだセルフリノベーションとかDIYみたいな言葉も使われていない頃だったけど、店の前に「ボランティア募集」の告知を出して、仲間を集めながらほぼ自力で改装しました。
店をオープンしてから一番最初に目指したのは、日中は雪山に滑りに行くためにランチの間お店を任せられるスタッフを育てること。もともと「自分の店を持つのが夢だった」というわけではないから、とにかく自分がいなくても回る形を目指した。順調にスタッフが増えてきてからは、数週間以上買い付けや旅のためにお店を離れることも増えてきて。
――もともと個人で始めた事業を法人化したのはどうしてですか?
個人的には、「代表」の肩書きがかっこいいとは思っていなかったから、法人化しなくてもいいかなと思っていました。ただ、3年目を超えた頃、税理士さんに決算書を見てもらったら、「法人化した方がいい」と。個人で事業を始めた時点で屋号があったし、七人くらいスタッフも雇っていたので、会社にしてから何かが変わったかといったらやっていることはなにも変わらなかったです。
ただ、俺はとにかくやっていることが多かった分、個人だと「お店以外の事業の売上が上がっていないのに、旅やスキーに行っているのは遊び?」と言われてしまう。でも、旅やスキーもその時々すぐにお金にならなくてものちのち次の事業に生きてくるわけで。
会社を立ち上げる時、業務内容を書き出すから、飲食業、宿泊業、カメラマン業、不動産業、スポーツコンサルティング、と全てを事業の業務として割り振りできたのはよかったですね。「新規事業のための種まきなんです」とちゃんと説明できる。俺はとにかく楽しくいたいから、働いても働いてもお金が残らないんじゃやる意味がない。うまくお金を残しつつ、次の新しいことに投資できる方が、さらに稼いで、さらにいろんなことができる。そういう意味では、法人化してよかったなと思います。
インタビュー後半では、オープン10年でゲストハウスへ業態を変えた理由や、長野を拠点としている理由、現在の働き方・暮らし方について聞きました。
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