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2024.9.3

「好きなことをしてギリギリで生きていこう」から始まったコーヒースタンド。「学生起業」のリアルと卒業後の現在地【後編】先輩起業家インタビューvol.5

2024.9.3

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

「最初は、『ゴージャスに生きなくていい。ギリギリでもいいから、好きなことをして生きていこう』と思っていたのに、いざお店を続けていくうちにやりたいことが増えてきて。だんだん『頑張って売上を伸ばしていこう』という姿勢に変わってきました」

長野県立大学在学中に長野駅前でコーヒースタンド「ODDO COFFEE」を立ち上げた小倉さん。大学卒業後もお店の経営を続け、現在は新店舗オープンに向けた準備を進めている最中です。

インタビュー後編では、コーヒースタンド立ち上げの経緯、独立後の心境の変化、これからの展望を聞きました。

<お話を聞いた人>

ODDO COFFEE 小倉翔太さん
静岡県出身。長野県立大学グローバルマネジメント学科起業家コース卒業。在学中に「ODDO COFFEE」を開業。現在は長野駅前にコーヒースタンドを展開し、コーヒー豆の仕入れ、焙煎、販売を行う。

「学生のうちにやるしかない」舞い込んできたチャンスを掴んで

――インタビュー前編では、ODDO COFFEEが動き出すまでの経緯をお聞きしました。本格的に事業を始めるにあたって、誰かに相談はしましたか?

コーヒーサークルODDOを立ち上げた時点で、ソーシャルイノベーション創出センター(以下、CSI)※1に今後の活動について相談に行きました。そこでは、「これからどんなことをしたらいいか」というアイデアベースの相談から、借入の仕方、経営を続けていくための利益の出し方などビジネス面の相談もさせていただきました。

また、CSIからの紹介で信州スタートアップステーション(以下、SSS)にも相談に行きました。そうして相談を重ねる中で、担当コーディネーターの方が現在のODDO COFFEEがある場所の持ち主の方と繋げてくださったんです。ビルの改修の構想の中にカフェ機能が入っており、まずは1〜2ヶ月間チャレンジショップとして店を開いてみないかと。

――いざ具体的に話が動き出したときはどう感じましたか?

「学生のうちにやるしかない」という気持ちでした。当時僕たちは大学3年生で、このまま就職してしまったら自分達でお店をやろうとするのは難しくなるだろうなと。

声をかけてもらったのが2022年の11月くらいで、オープンは2月だったので、やると決めてからはとにかく駆け足で準備を進めてきました。何も進んでいない状態で始まって、やっていく中で段々と形になってきた気がします。

――実際にお店が始まってからの手応えはどうでしたか?

もちろん、お店が形になってうれしかったです。でも、当時はまだサークルのメンバーと一緒に、4人体制でお店を回していたので、週に数回しかお店に立っていませんでしたし、豆の焙煎もしていましたが、何かが思い浮かぶわけでもなく、「一旦頑張っています」ぐらいの姿勢でした。

※1CSIとは・・・社会課題解決に取り組む事業者支援や産学官連携を行う、長野県立大学の地域連携拠点

周りが就活を始める中で、「自力でやっていく力」をつけることを選んだ

――意識が変わったのはいつ頃からですか?

他のメンバーが就職活動に向けて動き出した頃です。立ち上げ当初から、もともと自分がやりたくてやってきたことではあったので、いつか1人でやるタイミングが来るだろうと考えてはいたのですが、「今の姿勢のままではいけない」と感じ、メンバーのみんなに「今後は僕一人でやっていこうと思う」という話をしました。いざ一人で店に立ってみたら、店内の調度品の配置一つとっても「ここは良くないな」「もっとこうした方がいいな」というのが見えてきて。

それから、大学の授業で事業計画書を書き上げたのも大きかったと思います。一度将来の具体的な計画を立ててみたことで、「事業として続けていけるかもしれない」という実感が湧いてきました。

――お店の経営が自分ごとになってきたと。メンバーも含めて、周りが就活をし始める中で、小倉さんが「一人でやっていこう」と決められたのはどうしてですか?

極論かもしれませんが、アルバイトを辞めた時点で「僕は社会で働けないのかもしれない」みたいな気持ちがあったんです。今思えば、アルバイトと会社に就職して働くというのは全然違うものなので、もしかしたら就職して働くこともできたのかもしれません。

でも当時は、「いやな気持ちを抱えながらどこかで働くくらいなら、今のうちに一人で商売をしていけるようになった方がいいかもしれない」と考えていました。

――自分でやっていく力を磨いた方が生き残れるかもしれないと。

そうですね。だから、「たくさん儲けたい!」みたいな意欲も一切なかったです。「ゴージャスに生きなくていいから、好きなことをしてギリギリで生きていこう」という気持ちでした。

――実際のところ、独立後は「好きなことをしてギリギリ」状態なのでしょうか。

いえ、いざ自分でお店を経営するようになると、だんだんやりたいことが増えてきて。やりたいことを実現するためには売上を伸ばす必要がある、そのためには新しい取り組みや先行投資が必要で、それを続けていくと、結果として利益が出る。

たとえば、買う豆の量が増えると、使うお金が増える。その次の月の売上が少ないと、支払いができないという状況になります。でも、「じゃあ無理しなくていいや」ではなく、あえて仕入れ量を増やして「売上をあげるしかない」という状況に自分を追い込んでいくようになりました。最初にイメージしていたスケール感に比べて、今の事業の規模はもっと大きくなっていますね。

――お店を経営する中で、また意識が変わってきたと。

今でも、最終的にはのんびりお店をやりたいと考えています。でも、そのためにはODDO COFFEEとしての価値をしっかりと作り上げて、どこに行ってもお店ができるような状態にならないといけないんだなと分かってきました。

たとえば、最近は長野駅前の再開発の話が出てきて、この建物自体も将来どうなるかわかりません。今は「ちょっとでも状況が変われば簡単に店が吹き飛ぶぞ」という危機感があるので、まずお店としての力をつけていきたいですね。

まずはトライしてみることで、やりたいことややるべきことが見えてくる

――「好きなことをのんびりやっていく」ためには、ゆるがない土台が必要だと。今は力をつけていく段階だと意識しているのですね。ほかにも、経営していく中で意識が変わった部分はありますか?

駅前に店舗を出してからは、外国人観光客のお客さんと接する機会が増えました。お客さんたちと話をするうちに、「自分は日本人だけど日本のことを知らないな」と感じ、日本文化について勉強するようになりました。

すると、嗜好品という点ではコーヒーと日本のお茶には近い部分があるとわかってきて。お店作りをする上でも茶道の考え方は参考になりそうだったので、茶道を習い始めました。

――それは面白い変化ですね。

さらにそこから、器にも興味を持つようになって。お店で使う器もなるべくいいものにしようと、全国の陶器市に足を運んでは「いいな」と思った器の作家さんを調べて、お店用にオーダーをしています。

――お店で得た気づきから新しいことを初めて、それがまたお店に還元されるサイクルが生まれていますね。小倉さんが、今後新しく挑戦してみたいことはありますか?

来年を目処に、ODDO COFFEEの2店舗目を出す計画を進めています。長野市内で美術商をしている方が、空き家のオーナーさんと一緒にギャラリー兼ショップを出そうという話があって。ギャラリーだけでは売上が立ちにくいので、カフェもやろうという話で、うちに話が来たんです。

茶道を始めてから、美術品や工芸品に興味を持つようになったので、面白そうだなとお話を受けました。ODDOをオープンしたての頃だったら、ピンとこずお断りしていたかもしれません。そもそも、向こうもイベント出店の経験しかない学生には声をかけなかったと思いますし。

――経験を積み、考え方や興味関心にも変化があったからこそ、つながったご縁なのですね。一店舗目の経営は今後も続けていきますか?

続けていく予定です。現店舗ではずっとドリップコーヒーを出しているのですが、駅前はどちらかというと急いでいる方の方が多く、客層とやりたいことが合っていないなという気がしていたんです。

新店舗は、むしろ一杯のコーヒーをじっくり楽しむお店になると思うので、現店舗には新しくエスプレッソマシーンを置いて、スピーディーにコーヒーを提供できるようリニューアルできたらいいなと考えています。

――かつては接客に苦手意識を感じていたとお話がありましたが、新店舗の開店には不安はないですか?

僕は、決して「人と関わりたくない」というわけではないんです。でも僕は、人とコミュニケーションを取って人との関係性を作っていくことが苦手というか、それを放棄してしまうタイプの人間なんだろうなと。

でも、「お店」という形であれば、空間の作り方、サービスの仕方をしっかり作りこめば、最低限のコミュニケーションでも、いい空気や関係性を作れるんじゃないかと。新店舗も、いいお店、いい空間にしていきたいですね。

――自分のお店だからこそ、そういったお店作りのあり方も追求していけますね。最後に、小倉さんのように「好きなことで生きていきたい」と考えている方にメッセージをお願いします。

目の前にあることを頑張っていればいい。それだけな気がします。「長く続ける」という方向性でいつつ、まずはトライしてみて、やっていく中で降りかかってきた要素に一生懸命向き合っていけば、また次にやりたいことが出てくる。それを繰り返していけば、うまく転がっていくのかなと。

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2024.9.3

「好きなことをしてギリギリで生きていこう」から始まったコーヒースタンド。「学生起業」のリアルと卒業後の現在地【前編】先輩起業家インタビューvol.5

2024.9.3

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

「高校生の頃、古い建物をリノベーションしてひっそりとコーヒー豆の焙煎・販売をしているご夫婦に出会ったんです。当時はただコーヒーが好きで通っていましたが、心のどこかで『ああいう生き方っていいな、羨ましいな』と思っていたんだと思います」

そう語るのは、長野県立大学在学中に長野駅前でコーヒースタンド「ODDO COFFEE」を立ち上げた小倉翔太(おぐらしょうた)さん。自営業の祖父や父を見て育つ中で、「自分は安定した職に就く」と公務員を目指していましたが、長野県立大学に進学したことをきっかけに、「コーヒーを仕事にしたい」という気持ちが芽生えてきました。

インタビュー前編では、高校時代の原体験や、コーヒーチェーン店でのアルバイトと留学中に経た気づき、「ODDO COFFEE」の原点となるコーヒーサークル立ち上げのストーリーを聞きました。

<お話を聞いた人>

ODDO COFFEE 小倉翔太さん
静岡県出身。長野県立大学グローバルマネジメント学科起業家コース卒業。在学中に「ODDO COFFEE」を開業。現在は長野駅前にコーヒースタンドを展開し、コーヒー豆の仕入れ、焙煎、販売を行う。

「コーヒーから発見を」シングルオリジンコーヒーを提供する駅前のコーヒースタンド

――まずはじめに、小倉さんの営むODDO COFFEEについて教えてください。

ODDO COFFEEは、長野県立大学在学中の2021年2月に同期の友人たちと長野駅前に立ち上げたコーヒースタンドです。主に中浅煎りのシングルオリジン※1のスペシャルティコーヒーを販売しています。

2023年の春からは僕個人で独立し、大学卒業後も経営を続けています。コーヒー豆の仕入れ、焙煎から販売、カフェ営業を行っており、WEB SHOPも展開しています。

――スペシャルティコーヒーとは?

生産から流通、販売に至るまで適切な品質管理がなされ、消費者が「確かにおいしい」と評価するコーヒーのことを指します。最大の特徴は、口に広がる風味です。「コーヒー」=苦いという従来のイメージからは想像のつかない、爽やかでフルーティーな味わいが楽しめます。

スペシャルティコーヒーは、生産地の気候や標高、生豆の精製処理の方法など、生産される環境一つひとつの違いで味に個性が生まれます。ODDO COFFEEでは、それぞれの豆の生産環境や、酸味・甘み・苦味・香り・コクのバランスを示したレーダーチャートを記載したカードを作成し、味や風味をイメージしながらコーヒー選びができるようになっています。

――コーヒー=「苦くてブラック」というイメージがありましたが、新しい発見が得られそうです。

僕自身も、そうしたいろいろな味の違いを知っていくことが楽しく、自分が「おもしろいな」と感じた豆を仕入れることが多いです。

また、ODDO COFFEEでは、「コーヒーから発見を」というコンセプトを掲げて営業しています。同じ豆でも、産地や作り手が変われば味も変化します。空間や時代を彩り、人々とともに文化を作り上げてきたコーヒーは、日常の中にちょっとした輝きを届けてくれます。

日常の中にも、その時にしか感じられない心地いい瞬間が存在しているはず。そんな瞬間を発見するお手伝いができればと思っています。

※1シングルオリジンコーヒーとは・・・特定の地域・原産地のみで栽培されたコーヒーのこと、複数の原産地のコーヒーをブレンドしたものと比べて、独特の特徴や味を持つものが多い。

公務員志望だった高校時代。珈琲豆の焙煎販売を行う夫婦との出会いが自分の原点に

――小倉さんは長野県立大学グローバルマネジメント学部の起業家コースを卒業されていますが、進学当時から「いつか自分の店を持ちたい」という気持ちがあったのでしょうか。

いえ、当時は全くなかったです。高校生の頃は、「安定した職に就きたい」と考えて公務員を志望していました。僕の祖父は大工さんで、自分の会社を立ち上げた経営者でもあったので、「起業」自体は身近でした。好きなことを仕事にする祖父は僕の理想でしたが、一方で、会社を継いで働く父を見て育つうちに、自営業ならではの苦労も知りました。進路選択をする頃には、「僕は自営業は絶対にいやだ」と思っていたくらいで。

その中で長野県立大学を選んだのは、国公立大学でありながら留学が必須だったからです。なんとなく「普通の大学とは違うことができそうだな」と感じ、進学を決めました。

露店営業をしていたころのカウンターは、祖父に依頼し、製作してもらったもの

――公務員志望だった時期があるのですね。コーヒーが好きになったのはいつ頃からですか?

高校生の頃から好きでした。当時僕は理系の学生だったので、コーヒーを淹れる器具の実験道具っぽさに惹かれ、「コーヒーってカッコよさそう」という気持ちから自分でコーヒーを淹れるようになりました。

自分で豆を買うようになってから、古い建物をリノベーションして自家焙煎のコーヒー豆を販売しているご夫婦と出会ったんです。僕はそんなにお店の人と喋るタイプではないので、ただコーヒー豆を買うためにそこに通っていたんですが、店主のお二人の雰囲気が僕の知っている「大人」の雰囲気ではなくて。自分たちのお店を持って、マイペースに生きているように見えました。

今思えば、当時から「ああいう生き方っていいな、羨ましいな」という思いが心のどこかにあったんだと思います。

――「安定した仕事に就きたい」という思いがありつつ、自分のお店を持ってゆるやかに働く大人の姿が印象に残っていたと。大学に進学してからは、コーヒーとはどんな関わり方を?

コーヒー器具を揃えて、豆を買ってきてはいろんな淹れ方を試し、自分で飲むのはもちろん大学の寮のみんなに振る舞っていましたね。

それから、もっとコーヒーのことを知りたくなり、チェーンのコーヒー屋さんでアルバイトも始めました。いくつかのお店でのアルバイトを経験しましたが、中でも自家焙煎のスペシャルティコーヒーを扱うお店で働けたのは自分にとっての大きな転換点だったと思います。それまでは自分でコーヒーを淹れるだけでしたが、豆の産地や生産環境、焙煎技術にも興味を持つようになり、独学で焙煎の勉強を始めました。

一度離れたコーヒーの世界。留学を機に、学内での出店を目指す

――その頃から、「いつか自分でもコーヒー店を持ちたい」と思うようになったのですか?

実はそういうわけでもなくて。アルバイトとして働く中で、「僕には向いていない、無理だ」とアルバイトを全部辞めて、コーヒー自体からも離れてしまった時期があるんです。今でも、何がそんなに無理だったのか自分でもあまりわかっていないんですが……。

いくら「コーヒーが好き」という思いがあっても、アルバイトとなるとある程度「接客」や「コミュニケーション能力」も必要な要素になってくる。

お店に立つときは「ポジティブな自分」でいようとするんですが、「このポジティブさは一体どこから来ているんだろう?」と考え込んでしまって。自分で仕入れたり焙煎したりしたわけでもないコーヒーを笑顔で提供することに対し、「やらされている感」を感じてしまっていました。

――そこからコーヒー自体がいやになってしまったと。再びコーヒーに向き合うようになったきっかけは何だったのでしょうか。

大学2年生の頃にニュージーランドに留学したことです。僕の留学していたリンカーン大学は、長野市よりも田舎町にキャンパスがあったんですが、大学内のカフェテリアでコーヒーを販売していたんです。「この規模で商売が成り立つなら、長野でもできるんじゃないか?」と感じて。

当時、長野県立大学には食堂と購買しかなく、コーヒーを出している場所がなかったこともあり、「大学に相談して学内でカフェをやるのはどうだろう」と思いつきました。そこで、まずはコーヒー好きな友人を集めて2020年にコーヒーサークル「ODDO」を立ち上げたんです。

――なるほど。留学をきっかけにヒントを得たのですね。

ですが、立ち上げ直後にコロナが始まったため、学内での活動は休止になってしまいました。そこで、まずはオンラインショップを開設し、自家焙煎の豆の販売を始めました。

当時は、「接客業はもういやだ、なるべく人とコミュニケーションを取りたくない」と考えていた時期だったので、いい豆を仕入れて焙煎し、販売することで生きていけたらと考えていたんです。

でも、いざオンラインショップを開設しても、知名度も何もなかったのでなかなか売れなくて。売れるためには、実際に販売をしないといけないなと思い、市内のイベント等への出店を始めました。

――やりたいことはあくまで豆の焙煎・販売で、お店を出すのはそれを成り立たせるための手段だったのですね。

当時はそうでした。でも、いろいろと出店の機会は増えていく中で、やはり決まった時間に決まった場所で開いていないとなかなかお客さんには来てもらえないんだなと分かってきて。出勤前に立ち寄る、休みの日に一息つきにくるなど、買いに来てくれる人の日々の習慣の中に溶け込みたいなと考えるようになりました。

イベント出店で知り合った方が、善光寺表参道で飲食店を経営していて、「学生の子たちがやりたいことをするなら大歓迎」とお店の空き時間に場所を貸してくださり、間借り営業をさせてもらうようになりました。その頃から、ようやく「いずれは自分達の店を持ちたい」と考え始めるようになったんです。

インタビュー後編では、コーヒースタンド立ち上げの経緯、独立後の心境の変化、これからの展望を聞いていきます。

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2024.8.19

生き方の選択肢としての、起業。『SHINKI』を通して考える創業支援の態度

2024.8.19

県内全エリア

多くの人が「起業」という言葉から連想するのは、いわゆる“ベンチャー企業”の姿ではないでしょうか?

数人で立ち上げた会社が成長し、従業員を増やし、広いオフィスを構える。しかし、そんな「起業家像」は、ごく一部の人を示す、限定的なイメージだとも言えるでしょう。

起業を考える全ての人のゴールが、「経済的な成長」にあるとは限りません。

「そもそも、起業の在り方には人の数だけ多様性があるんじゃないか?」

それが、長野県で起業をする人のためのポータルサイト「SHINKI」を立ち上げたチームが感じている疑問でした。起業とはつまり、「事業を起こす」ということ。その理由が「経済的に成長したい」という場合もあれば、「もっと自分にあった環境で仕事をしたい」、「自身や家族の状況に柔軟に対応できる環境で仕事をしたい」といったケースもある。そこには、様々な「生き方の選択肢」があるはずです。

長野県にも創業支援の取り組みは数多くありますが、これまでは支援を行う各自治体や支援団体がそれぞれに情報発信をしており、一人一人が必要な情報を的確に手に入れるには、あまりに複雑な状況にありました。

いままで、行政や金融機関の発信だけでは届かなかった支援があるのではないか?そう考えて議論を深めてきました。

そんな状況を整理し、「起業の裾野を広げる」ための新しい取り組みがはじまります。

信州で起業をする人のためのポータルサイト「SHINKI」が、2024年1月にオープンしました。

長野県による創業支援拠点「信州スタートアップステーション(以下、SSS)」や、起業を目指す女性を支える取り組み「SSS Woman」とも連携しながら、「起業したい」と考える人たちをさまざまな切り口から支えていくこの取り組み。

SHINKIが何を目指していくのか?そして、長野のまちにはどんな創業支援のかたちがあるべきなのか?「SHINKI」の立ち上げに関わった3人による鼎談を通して、「地方における起業支援の在り方」について考えていきます。

<プロフィール>

関遼樹(せき はるき)さん

長野県産業労働部 経営・創業支援課主任。長野県職員、デロイトトーマツベンチャーサポートへの出向を経て、2023年に長野県庁へ復帰。アクセラレーションプログラム、スタートアップ拠点構築事業に従事し、地域イノベーターとして、地域課題解決とビジネスの両立を目指す。(以下、関さん)

渡邉さやか(わたなべ さやか)さん

​​長野県出身。長野県立大学大学院講師。修士取得後、新卒で経営コンサルタントとして従事するのに加えて、環境や社会に関する(Green&Beyond)コミュニティのリードや、プロボノ事業立ち上げにも参画。2011年に独立後は、一般社団法人アジア女性社会起業家ネットワークや株式会社re:terraを立ち上げ、被災地での産業活性プロジェクトや、途上国·新興国進出支援に関わるほか、女性社会起業家支援に尽力。株式会社ラポールヘア・グループ Chief Impact OfficerやNPO法人ミラツク理事など(以下、さやかさん)

井上拓美(いのうえ たくみ)さん

株式会社MIKKE代表。飲食店やITスタートアップの立ち上げ/経営を経て、「株式会社MIKKE」を創業。クリエイター向けの無料のコワーキングスペース「ChatBase」、HOTDOGSHOP「SPELL’s」、全国の高校生300人を集めたオンラインプログラム「project:ZENKAI」など数多くの事業/プロジェクトをプロデュース。長野県では、DX人材育成事業「シシコツコツ」の立ち上げ/運営、浅間山麓地域の防災減災をみんなで学び、高め合うプロジェクト「あさま防災カルチャークラブ」の立ち上げ/運営など。現在は長野県小諸市にて、『文化の台所』準備中。(以下、拓美さん)

なぜ「SHINKI」は、はじまった?長野の創業支援事情

──信州で起業をする人のためのポータルサイト、『SHINKI』が2024年に立ち上がりました。創業支援にまつわる情報が集まった同サイトを立ち上げた経緯を教えてください。

関さん(写真右):長野県庁としても、創業支援のニーズの高まりを感じていましたし、実際に起業を志している県民の方から連絡がくることもありました。県や市町村の窓口に「実は、創業をしたいんですけど」と電話がかかってくることがあるんです。電話を受けた職員は資料を見ながら創業支援策や相談窓口を案内するわけですが……その場ではきっと、繋げることができなかった情報もあったと思います。

自治体や金融機関、支援機関がそれぞれ行っている取り組みがもっと見える化された、みんなが使えるようなプラットフォームがあれば、「起業したい」と考えている人たちをもっと手助けできるはず。

そういった背景から、創業支援にまつわるポータルサイトが必要なのではないか、という議論がはじまりました。

──そもそも、長野県の行政としてはなぜ「創業支援」に力を入れたいのでしょうか?

関さん:県側としては、創業支援に対して2つの思いがあります。

1つは、スタートアップ企業が生まれて、精密機械工業をはじめとした県内の産業と組み合わさって、イノベーティブな次世代産業を生み出してほしいという思い。

そしてもう1つは、長野県が「女性や若者に選ばれる県」になるために、さまざまなチャレンジをしやすい状況を整備したいという思いです。

実は、長野県は若年層の女性の県外流出がすごく多いんです。そこには、「仕事の選択肢が少ない」という要因もあるはず。僕は、より多くの人が「ここで暮らしたい」と思える街でいるためには、従来の「決まった時間に、職場に行って働く」とは違う働き方の選択肢が必要なのではないかと思っています。

前者の「イノベーティブな次世代産業」だけを目指すなら、必要なことは会社の立ち上げを応援する「スタートアップ支援」になります。しかし、今回のSHINKIでは、後者を含む「広い創業」を支援するものにしたかった。そこで、井上さんやさやかさん(渡邉さやかさん)にも関わってもらいながら、「広い創業支援とはなんだろう」と話すところからスタートしました。

──井上さん自身、起業家という目線で起業家支援に対して思うところもあると思います。SHINKI立ち上げに関わってみて、どんなことを考えていましたか?

井上さん:端的にいえば、「起業をしたことのない人に“起業家を支援する”と言われても、何をしてもらえるんだろう?」という疑問はありました。

僕自身も起業して12年目に入るので、周りには多種多様な起業家の友人がいます。彼ら彼女らと関わっていて思うのは、「見ている景色の数だけ、起業の形がある」ということです。

そもそも僕たちの身の回りにあるあらゆる景色は、誰かが何年、何十年と前に起業をして生み出されたもののはずじゃないですか。建物も、使っている道具も、食べ物も、誰かがはじめたものなんですよね。

「スナックをやっています」、「美容師をやっています」、「こういう事業をやっています」みたいな人がいて、それぞれが「“起業”を通してやりたいことを実現した人たち」だということ。彼ら彼女らのことを、「起業家」という言葉で一括りにすることは難しいと思います。

だからこそ、サイトをつくる上でいわゆる「起業家像」をターゲットとして設定するというのは無理だと思いました。イメージをつくってしまうと、そこに当てはまらない人たちがきっと出てくるし、そうすると、本当にやりたかった「起業の裾野を広げる」ことからは遠ざかってしまうので。

──「起業家」と一括りにするのは難しい、という思いが出発点にあったんですね。

井上さん:そうなんです。実は、僕自身もさやかさんと対話してはじめて気づいたことが多くありました。さやかさんの話に出てくる人たちのことをこのポータルサイトのコンセプトに入れることができていなかった。自分はたくさんの起業家と関わっているつもりだったのですが、それでも無意識に想像できていないことがあった。

──さやかさんは、同プロジェクトへの参加についてどんな思いがありますか?

さやかさん:このプロジェクトを通して、「生き方としての起業」という考え方が広まればいいなと思っていますね。つまりは、自分の生き方や人生にオーナーシップをもつという意味で、全ての生き方が起業でもあるという考えからくる想いです。

私がメインで関わったのは、「SHINKI」のなかでもさらに、長野で起業したいと考える女性たちへの支援に特化したWEBページ「SOU」の立ち上げでした。

実は、このプロジェクトが動いている期間に出産をして。生まれてからわかった子どもの病気治療のために数ヶ月間付き添い入院をしていました。書かせていただいた「SOU」のボディコピーも、メッセンジャーだけでやりとりをしながら作っていきました。

女性の起業を支援するサイト「SOU」のボディコピー。サイトはこちら:https://shinki-shinshu.jp/sou/

さやかさん:その病棟には、自分と同じように子どもに付き添って入院しているお母さんがたくさんいました。さまざまな制約がある中でも、自分は意思があればリモートで仕事ができるし、大学院の授業もオンラインで講義ができるけど、それが可能な私は特殊な状況にあった。

入院の付き添いに限らず、時間や移動などの制約によって仕事ができない人たちがたくさんいる。特に、ケア労働を担うことが多い女性には制約も多い。そういう人たちはどうすれば仕事を続けられるんだろう?と考えた時に、やっぱり改めて“生き方の選択肢”としての起業があるべきだし、それに寄り添うための取り組みが必要だと思ったんです。

物理的なものや時間的なものに縛られない仕事のやり方も、起業を通じてつくることができるはず。売り上げを上げることももちろん大事だけど、自分を大切に扱いながら、「本当は何をしたいのか?」という自己表現をするような意味も込めて、起業ができると思うんです。

──経済的な成長だけじゃなくて、「生き方の選択肢を増やす」ための起業があるべき。さやかさんがずっと抱えていた思いと『SOU』の取り組みが繋がったんですね。

井上さん:いまの世の中で「女性起業家支援」という文脈でつくられたものって、多くは「男性社会へのカウンター」的な表現が入ってくると思うんです。でも、さやかさんと話していて感じたのはそういうことではなくて。もっと明るい、厚みのある明るさがありました。やりとりを経て感じたことと、さやかさんが完成させたタグラインの文章は奇跡のようにハマっていました。やりたい「起業家支援」の思いが、そこに詰まっていた。

好きなこと、得意なこと、やりたいこと。

無意識に抱いている「こうあるべき」という固定観念から離れて。

妻や母としての役割をいったん忘れて。

まず「わたし」に気づく。そして、「わたし」を開いてみる。

それが誰かの気持ちに届いたとき、見える景色が変わるはず。

誰も受けとめてくれなかったらどうしようって、

不安に感じたり、こわいと思ったりすることもあるかもしれない。

だからこそ、『sou』は、どんな「わたし」も、受けとめられる存在でいたい。

「法人が増えるかどうか」は結果論

──「生き方の選択肢として、起業がある」という考え方は、個人事業主や起業をする人の立場で考えると、きっと自然なことかもしれません。でも、その価値観を行政側も共有してくれようとしているのだと思うと、すこし新鮮に感じました。

──その一方で、「起業を支援する」側の立場で考えると、起業支援を行う上での具体的な指標が見えづらいと思うんです。どうすれば「起業の裾野が広がった」と言えるのでしょう?

関さん:定義によって見え方が全く変わってしまうとも思っています。行政としては、その年に法人登記した企業の数と元々の企業数の割合、いわゆる「開業率」(※)を指標として見ていて。

一方で目の前の指標としては、「個人事業主(※)」を含めて起業した人を追っていきたいなという思いもあります。

可能性としては、個人事業主として起業した人の事業が大きくなって、従業員を雇用し、法人として登記することになる……という場合もあると思っています。

※開業率……開業率(%)=新規開業した企業の数の年平均÷期間当初の企業数×100

※個人事業主……法人を設立せずに、個人で独立した継続的な事業所得を得ている人

井上さん:でも、「事業が成長して、法人化することになるか」って結果論だとも思うんです。立ち上げたビジネスが「個人としての起業」になるか、「新しい産業」といえるほど事業として成長するかって、実際に走り出してみないとわからない。

「起業をする人を増やすということ」と、「法人化して事業を伸ばしていく企業を増やすということ」はそれぞれ別の課題として分けて考えた方がいいなと思います。

それに、起業という手段を選ぶ人が増えれば、起業家や企業(法人)の母数が増える。母数が増えれば、結果として大きく成長する企業の数も増えるかもしれないですよね。

井上さん:プロジェクトを作っていくなかで、さやかさんはよく「生き方としての起業が必要なのは、別に女性だけじゃない」って話をしてくれてたんです。女性人口の流出という課題がいま長野県にあるから、たまたま女性起業家支援というのが入り口になっているだけで。本来は男女も年齢も関係なく、誰しもにあっていい選択肢だと。

さやかさん:女性が長野から出ていく理由の1つに、女性や若者に対する地域の寛容性が低いことがあると思うんです。地域にいると、「結婚はしないの?」「子どもは産まないの?」と当たり前に聞かれることが多い。だから地元には帰ってきたくない、というのもあると思うんですよね。

直接的な創業・起業とは関係なくても、長野県が生き方の多様性を認められる地域になれるか?は大事だと思っています。


支援する側に求められるのは、「不安な起業家へ寄り添う態度」

──「SHINKI」チームは、支援される側、支援する側、それぞれの立場にたって「より良い創業支援」について考え続けているのだなと感じます。「支援する側」の視点で、意識してきたことは他にありますか?

さやかさん:支援する側として、「起業家を応援する」ってつまり、どういうことなんだろう?ということを常に考えてきました。

起業する人にとっては、何かを立ち上げる時の最初の期間がやっぱり一番しんどい。まだうまくいくかどうかもわからない人たちに「大丈夫だよ」「一緒にいるから」って寄り添うことで、もしかしたら頑張れるかもしれない。そういう場所が長野県の中にもあればいいなと思っていました。

軌道に乗ったあとは、誰だって助けてくれるじゃないですか。上手くいくとわかっているものの方がやっぱり応援しやすいから。

──起業家を支援する上での「態度」のような話ですね。どういう姿勢で起業家と関わるべきか。

井上さん:僕自身、冒頭でも話したように「起業をしたことがない人から起業支援って……」って正直思ってしまっていたけれど、本当は創業支援をしている行政側の人たちは直接話してみると、「創業支援しますよ」って上からくる感じは全然なくて。すごく謙虚だったりするんですよね。その感じがもっとそのまま伝わればいいな、と思います。

ただ一方で、起業家支援の多くが「窓口を構えて、起業家が来るのを待っている」という状況になりがちなことも気になっています。

本当は、支援したい、応援したいと思っている行政や金融機関などの人たち側からいろんな人に会いに行って、働きかけて、「この町で起業すること」へ関心を持ってもらうことが大事なんじゃないかと。

──受け身の支援ではなく、積極的に「起業したい人」を見つけていくような支援が必要?

井上さん:そうですね。いろんな街を訪れても、「生き方に寛容な地域」や、誰かのやりたいことに関心を持つ人が多い環境では、新しい取り組みが生まれている印象があります。

「起業したい人の声を聞いていく」ということは、やはり態度として必要ですよね。

──受け入れられている、関心を持たれている実感は、人のアクションを後押ししますよね。

さやかさん:身近に起業家のロールモデルがいると、起業家が増えるということは研究としても証明されてるんですよ。地域ごとにそれぞれの地域のエコシステムがあるとは思うけれど、そこをかき混ぜてあげることで、もっと面白いことが起きるんじゃないかな。

地域にはさまざまな資本があります。起業に関係がありそうな財務資本や知的資本、技術資本だけでなくて、その地域の歴史や風土を表すような文化資本や自然資本、そこに暮らす人々の表す人的資本だったり、人と人の関係性を表す社会関係性資本もすごく大切ですよね。

そうした資本の中でも、特に社会関係性資本に関わるようなところを、地域やコミュニティなどを超えて「混ぜる」役割を果たすことができるのは、実は行政だと思うんです。

長野県が、1つ1つの自治体で起きていることを横断しながら適切な資源と適切な人を繋いであげることができれば、起業したい人たちの可能性は大きく広がっていく。

関さん:SHINKIは、そういう風に地域の人や情報や機会を「かき混ぜる」ためのツールとして使ってもらえたらいいな、と思いますね。

サイトの具体的な仕様の部分でも、さまざまな情報が並列で載っています。本来であれば「イベント/セミナー」「融資の検討」「場所探し」といったカテゴリ分けを丁寧にするなら、探している情報だけをピンポイントに絞り込めるようにするといい。

ただ、SHINKIでは1つのキーワードを使って検索しても、関連性がありそうな他の情報を混ぜ込むように設計していて。意識して調べた情報以外にも、「結果的に自分にはこの情報が必要だった」という情報と出会えるような形にデザインしています。

それもまた、1つの可能性の混ぜ方だと思うんです。

「どういう情報を伝えれば、本当に起業に役立つのか?」という問いと葛藤は、起業したい人のものだけではありません。起業したい人たちの悩みを受け止めて、力になりたいと考えてきた行政・金融機関などの支援側の人たちも課題として持っていたはず。

起業したい人はもちろんなのですが、支援機関の方々にこそ、本当は「SHINKI」を使ってほしいと思います。

起業家が増えた地域は、どう変わるのか

──地域にとっては、起業家が増えることでどんな影響があると思いますか?

関さん:すこし余談にはなるのですが……実は昨年、僕は東京の会社に出向していて、そこではたくさんの起業家の方々と関わる機会がありました。「どんどん稼ぐぞ」ってタイプの人もいたんですが、「すぐには儲からなくても、真摯に社会課題に取り組む」という人もすごく多かったんです。

僕は、行政との繋がりを求めている起業家と行政の繋ぎ役をやっていたので、そういう起業家と話す中で「この人たち、本当にすごいな、素敵だな」と思えました。

これは男女の話をしたいわけでは無いんですけど、実際に、「これは本当に女性じゃないと、そんな視点に気づけないだろうな」と思えるビジネスもたくさん見てきました。

──起業家たちのものの捉え方や、社会に対する行動のあり方に惹かれたんですね。

関さん:これは自分の私見ですが、もし、本気で社会課題に取り組んだり、社会をよくするための挑戦をする人たちが長野のまちにいてくれたら、もっと住みたいまちになるだろうなって思ったんです。まちがもっとでこぼこになるというか。多様性が生まれていく気がします。

いろんな社会課題と本気で向き合うためには、大企業が作る事業や行政による取り組みだけでなく、小さな個人の営みも含めた起業の在り方が増えた方が、そこに生活する人たちが自分の暮らす社会のことをもっと好きに好きなれるんじゃないかなって思います。

井上さん:起業をする人を増やすということって、そこに暮らす人が「自分が生きてる社会を好きだ」と思えるようになるための一つの手段なのかもしれないですね。そういう人がいっぱいいて、「この起業家の考えてることは、自分と合うな」、「この人が作ろうとしてる街っていいな」って思える人がいる街は、きっと住んでいて楽しいだろうなと心から思える。

井上さん:「起業したい人を支援し、手助けする」ことは、人間ひとりひとりの生き方の選択肢を増やすことになる。そう考えて「SHINKI」のプロジェクトを進めてきました。

ただ、今日改めてプロジェクトが目指してきたものを振り返ってみると、それだけじゃないようにも思えました。「起業する人を支援する」ということは、今までとは少しだけ違う今を生きる人の生き方の選択肢を増やすことに繋がる。起業する人たち本人だけじゃない、同じまちで暮らす人たちの未来にも影響を与えることなのかもしれないと思いますね。

まとめ

行政として起業を支える関さん、民間の立場から女性起業家を支援してきたさやかさん、起業家としてほかの起業家をどう応援できるか?を考えてきた井上さん。

三人が考えてきたのはきっと、「生き方の選択肢としての起業」というものをどう支えることができるのか。

その命題は長野県だけのものではなく、日本のどの地域でも考えることができるものなのではないでしょうか。

『SHINKI』では、長野県での創業支援にまつわる情報発信や、起業相談などの支援を行っていきます。事業を作って成長したい人も、生き方の一つとして起業という手段を使ってみたいと考える人も、ぜひアクセスしてください。

〇信州で起業する人のためのポータルサイトSHINKI https://shinki-shinshu.jp/

〇長野県の創業支援拠点「信州スタートアップステーション」 https://shinki-shinshu.jp/sss/

〇女性起業支援特設ページ「SOU」 https://shinki-shinshu.jp/sou/

ARTICLE
2024.8.19

こうありたい日常を、自らの手でつくり出す。「学生起業」のリアルと卒業後の現在地【後編】先輩起業家インタビューvol.4

2024.8.19

県内全エリア

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

コロナ禍で大学生が孤立していくことに課題を感じ、友人と二人で会社を立ち上げシェアハウス事業を始めた川向思季さん。大学卒業後も、社会人大学院に通いながら自身の事業を続け、自分の「やりたいこと」と向き合いながら仕事を広げています。

現在は、信州スタートアップステーションのコーディネーターとして創業支援の相談員も務めているシキさん。インタビュー後編では、就活期の悩みや、仕事の広げ方、未来の若手起業家に対する思いや期待を聞きました。

<お話を聞いた人>
合同会社キキ 川向思季さん
1999年生まれ、宮城県出身。長野県立大学大学院ソーシャルイノベーション研究科(MBA)卒。長野県のスタートアップ支援事業、公立高校での探究学習のデザイン、県立図書館のコーディネート事業へ携わり、2021年(学部3年次)に学生と社会、それぞれがこうありたいと思う日常を自らの手でつくりだすことが出来るよう仕組みや場所を整える”合同会社キキ”を立ち上げる。#暮らし #学び #はたらく をテーマに、地域や学生の関係性を探究したり、学びの場づくりをしている。

就活を一度経験することで、漠然とした不安が消えた

――インタビュー前編では、「コロナ禍で孤立している学生を何とかしたい」という思いから大学三年生の春に起業したとお聞きしました。当時、周りは就活に向けて動き出す時期だったと思うのですが、焦りはなかったですか?

当時はまだコロナ禍だったので、周りの学生たちが就活してのるかどうかすらわからなかったんです。なので、特に周りの状況と自分を比べて焦ることもありませんでした。とはいえ、「就活した方がいいのかどうかわからない」という疑問もあって。そこで知り合いに相談してみたら、「経験として就活をしてみたら?」とアドバイスされ、「たしかに」と納得したので一度就活も経験してみました。

――そうだったんですね。実際に体験してみてどう感じましたか?

何社か面談して、「自分の事業もあるので、週2ぐらいでフルリモートで働けたら」と正直に話したら、「フルコミットしてもらわないと困る」と言われて「そうですよね」と。でも一方で、「週一で8時間勤務、もしくは週2日4時間勤務でも正社員として雇えますよ」という会社もあり、「こういう働き方も出来るんだ」とわかりました。

結局その会社は、いろいろとコミュニケーションを取る中で辞退することになったんですが、自分にその気があれば就職して働けるんだなと実感できました。だったら、今は別に自分の事業をやってみてもいいかなと。

――実際に就活を体験してみることで、「就職」という道を取らないことへの不安がなくなったのですね。

それから、当時のゼミの先生が長野県立大学で社会人大学院の立ち上げに携わっていて、お世話になっている起業家の方が大学院を卒業していたことや、自分自身が大学で学ぶ中で「やっぱり学問って面白い」という気持ちがあったので、事業を続けつつ大学院に進学したいと考えるようになりました。

でも、当時はシェアハウス事業を立ち上げたばかりで、キキの経営はまだ黒字になっていなかったんです。そこで、あるタイミングで会社としての事業のあり方や、「大学院に進学したい」という思いを長野の起業家の先輩に相談したら、「じゃあ仕事を作るよ」とキキに仕事を振ってくれたんです。そこから、インターンシップの事業やイベントの企画・運営の事業を本格的に進めるようになり、「あれ、このまま生きていけるかも」と感じるようになりました。


――「シェアハウスを立ち上げる」ことありきで始まった起業が、だんだん自分の働き方・生き方として実感を伴うようになってきた。

さらに、大学院の入試にあたって事業計画書を書く必要があったことも大きかったです。入試のためとはいえ、3年後、5年後を見据えた終始計画や事業計画を書くうちに、「事業としてやっていけるかもしれない」と、自分の将来のあり方が現実味を帯びていくのを感じました。また、シンプルに「仕事をちゃんとやらないといけないな」と思うようになりました。

例えば、当時は月に一度のイベント企画・運営をしていたんですが、「月に一回」って一見少なく思えても、実際はすぐ次の月が来るんです。ただこなすだけでは先に続かないぞと。そうやって、仕事一つひとつに全力で取り組んでいるうちに、気づいたらそのまま大学卒業の日を迎えていた、という感覚でした。

その時々で寄り道をしても、最終的には進みたい方向にたどり着く

――設立から3年目を迎えた現在は、シェアハウス事業のように自発的に始めた事業と、周りからの依頼で始まった事業の割合はどうなっていますか?

どちらかといえば、自分から「やりたいです」と発信したことで始まった事業の方が多いと思います。「こういうことがしたい」と発信していたら、声をかけてくれる人が出てきて仕事につながっていった、という場合がほとんどです。

――具体的にはどうやって仕事を広げていきましたか?

手を上げ続けることが大事ですね。「私はこれをやりたいんです、こういう仕事をください」と発信し続ける。特にキキの立ち上げ当初は、最低でも年に3回は、今自分の興味関心がある領域、向かいたい方向性を文章にまとめてfacebookで発信するようにしていました。

――まずは自分から発信をしていく。仕事を受ける上での悩みはありましたか?

最初の頃は、仕事を断ることが難しかったです。「ちょっとこれはちがうな」と感じる仕事の依頼が来ても、最初は「せっかく声をかけていただいたし」と丁寧にコミュニケーションをとって、打ち合わせややりとりを重ねてしまい、そのまま断りきれずに続けてしまっていた時期もありました。

――違和感を抱きつつも、断りきれずに受けてしまっていたと。今はそういった案件は減りましたか?

はい。かなり減ったと思います。ある時「仕事ができる人はちゃんと断れる人でもある」という本の一節を読んだことをきっかけに、仕事の受け方にちゃんと向き合うようになりました。

最近は、「ちょっとちがうな」と感じたら、「素敵な企画ですね、でもこの内容だったらわたしたちよりこっちの方がもっと面白くなるかもしれません」と、自分達よりも適任な会社や団体にパスを出せるようになりました。

でも、今でも「今この仕事をすることで、自分の経験やスキルにはなるだろうし、短期的には目指したいところにたどり着けるけれど、長い目で見たらズレていくかも。でも今はやってみよう」と感じている仕事はいくつかあります。

――思季さんにとっての「やりたいこと」は、昔からずっと変わっていないのか、仕事をしていく中で見えてきているのかどちらですか?

結局高校生の頃から変わってないのかもしれません。例えば「さとのば大学」との連携は、自分が長年やってみたかった「プロジェクトを通した学びを、まちというフィールドで作る」事業に近いです。

でも、学校教育のあり方そのものに興味があった頃に、まずは高校の教育現場に入って「探求の授業を一緒に作る」プロジェクトを経験したんです。そこから、「学校の中だけではできないことがあるな」と気づきを得て、さらにいろいろな教育系のプロジェクトに関わる中で、「さとのば大学」との連携に辿り着けた。

――その時々で「やりたいこと」に向き合ってきた結果、もともとしたかったことに辿り着いていた。

「食わず嫌いはよくないから、まずはちょっとかじってみよう」といろいろやっているうちに、最終的にやりたかったことにたどり着いたというか。「本当にやりたいこと」を諦めて別の何かをしてきた感覚はないですね。最終的には一本の道なのかもしれませんが、これからも寄り道もしながら進みたいと思っています。


若者の持つ、未熟でも圧倒的なエネルギーを社会へつなげたい

――改めて、「学生のうちに起業する」という選択について今のシキさんはどう考えていますか?

今思えば、自分が大学生の頃は「起業する」というのがどういうことなのかよくわかっていませんでした。やることがたくさんあると思っていたけれど、いざ法人登記をしてみたら、意外と定款を作って、判子を押すだけで終わりましたし、「起業する/しない」で変わることも実はそんなになく、モヤモヤと悩んでいた時間がもったいなかったなと感じています。

なので、創業当時の私たちのように、「やりたいこと」が明確に決まっていなくても、一旦法人登記をしてみる人が増えたら、それはそれで面白いのになと思います。

――シキさんは現在信州スタートアップステーション(SSS)のコーディネーターとして相談支援を行っていますが、どんな思いで相談にのっていますか?

高校生や大学生と面談する中で感じるのは、とにかく彼ら彼女らの持つ、「何かやってみたい」というエネルギーの強さと素晴らしさです。そういったエネルギーや想像力は、社会に出て現実を知るにつれてだんだん失われてしまう場合が多い。だからこそ、若いからこそできるチャレンジを私は応援したい。

「すでに完成されたもの」だけではなく、「未熟だけれどもエネルギーがあるもの」が社会にインパクトを与える瞬間が、たしかにあると思うんです。私自身、それだけの熱量を持ったみんなと面談しているだけで元気がもらえます。そのエネルギーを、「現実味がない」と一刀両断するのではなく、丁寧に話を聞いた上で、ちゃんと社会に出してあげられるような支援をしていきたいです。

――かつてシキさんが「やりたいこと」を仕事にする大人たちに影響を受けたり、励まされたりしてきたように、今後は自分がサポートする側に。

とにかく「できるよ」と励ましたいです。自分のやりたいことをしている人や、自分の人生を自分で選択できる人は、やっぱりかっこいいですよね。それに、そういう人が長野に増えたら、長野での私の暮らしもきっともっと楽しくなるはずです。

株式会社キキのホームページ

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2024.8.19

こうありたい日常を、自らの手でつくり出す。「学生起業」のリアルと卒業後の現在地【前編】先輩起業家インタビューvol.4

2024.8.19

県内全エリア

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

「高校生の頃から、『起業する=すごい社長』というよりは、『自分のやりたいことをしながら生きている人たち』みたいなイメージがありました。自分もいつか選択肢の一つとして取れたらいいな、くらいに思っていて」

そう語るのは、長野県立大学在学中に大学の友人と二人で合同会社キキを立ち上げた川向思季(かわむかいしき)さん。高校時代に、様々な働き方をする起業家の先輩たちと出会ったことから、「起業」という選択肢は自分にとって身近なものだったと振り返ります。

インタビュー前編では、高校時代の原体験やコロナ禍により芽生えた課題感、友人と二人で会社を立ち上げるまでのストーリーを聞きました。

<お話を聞いた人>
合同会社キキ 川向思季さん
1999年生まれ、宮城県出身。長野県立大学大学院ソーシャルイノベーション研究科(MBA)卒。長野県のスタートアップ支援事業、公立高校での探究学習のデザイン、県立図書館のコーディネート事業へ携わり、2021年(学部3年次)に学生と社会、それぞれがこうありたいと思う日常を自らの手でつくりだすことが出来るよう仕組みや場所を整える”合同会社キキ”を立ち上げる。#暮らし #学び #はたらく をテーマに、地域や学生の関係性を探究したり、学びの場づくりをしている。

「こうありたい日常を、自らの手でつくり出す。」

――まずは、思季さんが共同代表をつとめる「合同会社キキ」について教えてください。

(写真左が思季さん、右が美綺さん)

キキは、2020年3月に設立された会社です。大学4年生の春に、同級生の九里美綺(くのりみき)と二人で立ち上げました。現在は、フィロソフィーに掲げている、「こうありたい日常を、自らの手でつくり出す。」ことができるような仕組みを地域に作っていくため、大きく分けて四つの事業に取り組んでいます。

まず一つ目が、キキの一番最初の事業である「PARK.事業」です。豊かな「まち暮らし」をシェアするために、まちに溶け込んだ学生・若者向けのシェアハウスを長野市内で複数運営しています。

次に、「地域で働く支援事業」では、「働く」と若者を近づけるため、地域実践型インターンシップのコーディネートを行っています。2023年度には、塩尻市のNPO法人MEGURUに協力し、長期の地域実践型インターンシップで4社、取材型短期インターンシップでは9社と学生たちをつなぎました。また、自社事業でも1ヶ月以上の長期インターンシップの実施に挑戦しています。

三つ目の「学びを地域に開く事業」では、「新たな世界との出会いでいろんな自分を見つける」仕組みを作ります。2024年からは、キャンパスを持たずに地域をフィールドとして学ぶ市民大学・「さとのば大学」との連携を開始し、長野市で「暮らす・働く・学ぶ」仕組みを一緒につくっています。

また、長野市子どもの体験・学び応援事業「みらいハッ!ケン」プロジェクトの地域コーディネーターとして参加しており、地域の子どもたちが、周りのかっこいい大人や、自分のまちとの接点を作るにはどうしたらいいかを考えています。

最後に、「コトを起こす支援事業」では、「自分の生き方・働き方」を作るための支援を行っています。私たち自身が学生のうちに起業したことから、キキにはよく起業に興味のある若者からの相談が寄せられます。信州スタートアップステーションと連携し、コーディネーターとして創業支援を行っているほか、「なにかを始めたい人の一歩を応援する」ため、じっくりと話を聞いて、適切な支援につなげていく方法を模索中です。

「起業」という選択肢が身近にあった高校時代

――思季さんは、長野県立大学グローバルマネジメント学科起業家コースの一期生ですが、高校生の頃から起業家を目指していたのでしょうか。

いえ、当時は「起業しよう!」みたいな気持ちは全くなかったです。長野県立大学を選んだのは、一年目が全寮制であること、留学が必須であること、そして一期生として集まってくる学生たちはきっとおもしろいだろうな、という予感があったからでした。ただ、「起業」に対しては、当時から身近な印象がありました。

――それはどうしてですか?

私は宮城県出身なのですが、宮城県は東日本大震災以降に宮城に移住して起業した人や、起業して地域支援をしている大人が多くいたんです。高校生の頃から、学外でそういったプロジェクト活動に参加していたので、起業を経験している大人との接点が多く、「起業する人=すごい社長」というよりは、「自分のやりたいことをしながら生きている人たち」みたいなイメージがありました。自分もいつか選択肢の一つとして取れたらいいな、くらいに思っていました。

――高校生の頃は、どんなプロジェクトに関わっていましたか?

当時は留学に興味があったので、留学や国際交流に関するプロジェクトに参加していました。また、私が高校生の時は、ちょうど震災から5年ぐらい経った時期で、ハード面の復興からソフトの復興に切り替わり始めた頃でした。そのため、まちづくりや若者のリーダーシップ育成に関するプロジェクトが多発しており、自然とそういったプロジェクトに関わる機会も多かったです。

そんな中で、復興支援のためのNPOを立ち上げた人や、雇用を通じて地域を応援するために起業した人、また、「楽しそうに暮らしているけれど、この人はどうやって生計を立てているんだろう?」と不思議な人、脱サラしたフリーランスの人、大企業に所属しながらも地域のプロジェクトに率先して参加している人など、いろんな面白い大人たちに出会いました。当時から「働く=会社員」というイメージは薄かったかもしれません。

――起業に対する意欲や、やりたいことの具体的なイメージはなくとも、「起業」という選択肢が、当たり前なものとして身近にあったのですね。

はい。でも、今思えば昔から新しいことを企画することが好きでしたね。高校生の頃から、「こんなサービスがあったらいいのに」と思いついたアイデアをスケッチブックに書くのが趣味で。当時は学校教育に関心があったので、「まちの中に教室が点在している商店街みたいな学校があったらいいな」と構想を練っていました。

――「まちの中に教室が点在している学校」のアイデアは、現在取り組んでいる「さとのば大学」との連携にかなり近いものがありますね。

まさにそうですね! 地元を出て長野の大学に進学したのは、「心も場所も入れ替えて心機一転!」という気持ちもあったのですが、最近は高校時代にお世話になった方々と仕事の場で再会したりご一緒することが増えていて。回り回って高校時代の自分と今の自分が近づいている感覚があり、面白いです。

「大学生の孤立化をなんとかしたい」という課題感から起業の道へ


――「選択肢の一つ」だったところから、実際に起業に至るまでの経緯を教えてください。

一番のきっかけは、大学3年生の頃にコロナ禍に直面したことです。当時の大学生は、今では考えられないほど孤立していたんです。授業はリモートになり、アルバイトで最初に雇用を切られるのも大学生。本来一年目は全寮制のグローバルマネジメント学科も、寮に入れる学生の人数に制限がかかっていました。そんな環境で、同級生や後輩たちがどんどん孤立し、心身が不健康になっていくのを感じていて、「これは大変だ、なんとかしないといけない」と。

――課題解決のための選択肢が、起業だったと。

はい。当時、自分はシェアハウスで暮らしていたので、そこまで孤独感を感じてはいませんでした。また、一年生の頃は全寮制だったので、共同生活の良さも知っており、「学生のためのシェアハウスを作るぞ」と決めたのは自然な流れでした。

ちょうど同時期に、大学の知人であった美綺ちゃんが「シェアハウスを作りたい」と考えていることをfacebookで見つけて、「一緒に作ろう」と連絡をしたのが始まりです。美綺ちゃんとは、当時から仲が良かったというわけではなく、「存在は知っている」くらいでした。

私は「大学生の孤立化をなんとかしたい」という思いから、建築に興味があった美綺ちゃんには「自分の手でシェアハウスを作ってみたい」という思いがあり、それぞれの思いとやりたいことがうまく合致したんです。

――なるほど、二人で話し合って事業の計画が生まれたわけではなく、ソフト面とハード面双方からシェアハウス事業をやりたい二人が出会ったのですね。

大学3年生の夏頃から、二人で具体的に計画を練るようになりました。まずは物件を探し、そこから物件を借りるのにかかる費用やリノベーションにかかる費用、家具を揃えるのにかかる費用を洗い出していったら、どうやら最低60万円ぐらい必要だぞと。

そこで、運営開始後の家賃収入を計算したところ、3年間で初期費用は回収できそうだとわかりました。でも、当時学生だった二人にとってはその60万円を用意するのが大変で。

初めは、それぞれが個人でお金を借りることも検討しました。ですが、お互い奨学金も抱えている状況だったので、個人で借りるのは現実的ではないぞと。そこで資金繰りについて調べていく中で、法人化をすれば法人として借り入れが出来るとわかったんです。

――事業を形にするためには、法人化が必要だったと。

はい。それならば、法人として登記をして、初期資金を得ようと。私は書類手続きが苦手なので、美綺ちゃんが代表、私が共同代表として手続きをすることになりました。秋頃の登記を目指していましたが、誕生日の関係で当時美綺ちゃんがまだ未成年だったので、2月の誕生日を待って3月に登記した形です。

ミキとシキの二人だから「キキ」。そんなキキのスタートでした。最初はお互いの未来のことは全く考えていなくて。とにかく早くシェアハウスを立ち上げよう、孤立する学生をなんとかしないといけない、二人ならなんとかできそうだ、という思いだけで動き始めました。

・・・

インタビュー後編では、就活時の疑問や、仕事の幅の広げ方、未来の若手起業家に期待することについて聞きました。

合同会社キキのホームページ


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2024.8.7

長野県立大学主催のWE-Nagano Global Conferenceが、7月19日〜21日の3日間で開催されました

2024.8.7
イベント/セミナー/研修を探している とりあえず事業の相談がしたい 他の企業との協業を検討している

県内全エリア

昨年度から長野県としても女性の創業支援事業が始まりSSSWの活動もスタートしていますが、 そうした潮流がある中で、7月19-21日に長野県立大学として初めての開催である WE-Nagano(Women Entrepreneurs Nagano) Global Conferenceが開催されました。

長野県は、本イベントの後援になっているのに加えて、イベントには阿部長野県知事も登壇致しました。 そんなWE-Nagano Global Conferenceの開催レポートを、SSSWチーム事務局でありWE-Nagano実行委員会でもあった勝山よりご紹介します。

WE-Naganoとは Women Entrepreneurs(女性起業家) Nagano は、長野県立大学主催のプロジェクトで、 「グローバル」「女性性」から地域イノベーションについて考えることを目的としています。 Women(女性)とプロジェクト名にはついていますが、 誰もが自分自身の性別や、世代、国籍などの属性にとらわれずに、自分自身の生き方を創造できたらという想いが込められています。
 https://we-nagano.com/62/

2024年7月19-21日開催 WE-Nagano Global Conference 1日目は長野市芸術館、2-3日目は長野県立大学三輪キャンパスで開催されました。

1日目には、ビジネス界に限らずさまざまなセクターの方がご登壇くださり、長野県における地域イノベーションや長野県のもつ可能性、グローバルと直接つながることから見えてくるビジネスの可能性、そして女性経営者たちが語る長野県のイノベーションなどについて語られました。 阿部長野県知事は、1日目の「Keynote Session:グローバルと女性的視点から考える長野県の地域イノベーション」に登壇し、地域イノベーションを考える上での教育の重要性について言及し、また、このセッションではWE-Nagano Global Conferenceの今後への期待なども登壇者の方々に語られていました。

2日目は、Z世代が「良い企業」「良い地域」について議論するセッションが開催され、それぞれの活動から見えてくる視点について議論されました。特に長野県内に生まれ育った登壇者からは、長野県に存在している若者や女性を抑圧する社会・文化的な雰囲気についてもエピソードと共に触れられていました。

3日目は、昨年のsouのワークショップとしても実施したArt Earth Dialogueが実施されました。 参加者の中には、昨年のワークショップにも参加してくれた方もいて、その時から約1年を経ての今について語られたり、自分自身が創造的に生きることを考えた時に大切にしたい気持ちなども共有された時間となりました。

女性の創業と「WE-Nagano Global Conference」 WE-Naganoのキャッチコピーは、「すべての『わたし』を創造的に生きよう」となっています。 相対的に男性に比べると女性の方が、さまざまなことを理由として選択肢を諦めていることがあるのではないかと思います。 特に、創業や起業という働き方や生き方に対して、女性はハードルや障壁を感じている人も多いかもしれません。 今回のWE-Nagano Global Conferenceに参加することで、 自分が無意識に感じているかもしれない、創業や起業に対する心の障壁やハードルが少しでも外れていたらいいなと WE-Nagano実行委員の一人として感じていますし、 SSSW事務局としては一歩踏みだすきっかけとして、今後もSSSWの個別相談をご利用いただけたらいいなと願っています。

昨年SSSWの個別相談やプログラムに参加してくださった方が、WE-Nagano Global Confereceに参加して、 「長野県の未来が変わる瞬間に立ち会った気がする」とSNSで書き込んでくださっていました。 とても、嬉しい言葉です。 SSSWは、起業・創業にハードルを感じている方や、今後の働き方に悩んでいる方なども含めて、 個別相談(女性がお受けします)を受け付けております。 
ご希望の方は、SNSのメッセージ機能やinfo.ssswomen@gmail.comまでご連絡ください

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2024.8.1

働く人の心身を癒して整える。「自分の経験」を突き詰めて、やるべきことを見つけた道のり【後編】先輩起業家インタビューvol.3

2024.8.1

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

子育ての環境を考えて長野県に移住した滝沢さんは、12年間にわたり公務員として働いてきました。在職中は、さまざまな業務に携わり、大好きな信州のために貢献してきましたが、追突事故による後遺症から公務員を退職。自分のやるべきことを見つめ直す中で、働く人の健康に向き合う「出張型リラクゼーションサロン」のサービスを思いつきました。

インタビュー後編では、サービスの認知拡大の仕方、事業を経営する上で自分の中で大切にしていることや、これからの展望を聞きました。

<お話を聞いた人>
株式会社ネックレス 代表取締役 滝沢直美社長(たきざわなおみ)さん
地方公務員として12年間勤務。追突事故による後遺症でデスクワークが困難になり退職。その後、教育サービス業および福祉事業所立ち上げ。2022年9月 株式会社ネックレス創業。
健康経営マイスター/健康経営アドバイザー/ボディセラピスト/傾聴療法士/カウンセラー

まだ認知されていないサービスを地道に広げていく

――インタビュー前編では、ご自身の経験をサービスに転換することで、「出張型リラクゼーションサロン」のアイデアが生まれたとお話いただきました。業界未経験のところから、どのようにサービスを展開していったのでしょうか。

とにかく全てが未経験だったので、まずはリラクゼーション業界や店舗経営の仕方、健康経営のあり方について一から勉強をしました。それと並行して企業理念を固め、思いに共感してくれるセラピストの方々に仲間に加わっていただき、サービスの実現まで漕ぎ着けました。

また、実際にサービスを立ち上げるタイミングで、信州スタートアップステーションの「信州アクセラレーションプログラム」に採択されたので、サービスの認知と理解を広げていくための伴走支援をしていただきました。

※1「信州アクセラレーションプログラム」とは……信州スタートアップステーションが取り組む、創業後間もない企業に対する短期間の集中的伴走支援プログラム。

――「リラクゼーション」や「健康」というと、今の社会ではまだまだ個人に委ねられている部分が大きく感じます。それを福利厚生の一環として、企業に広げていくのは大変ではなかったですか?

今でもまだまだ大変な部分です。都市部では、こういったサービスは既にいくつかあるようですが、長野県では「なにそれ、そんなサービスがあるの?」というところから話がはじまります。立ち上げ当初は、とにかく県内の何百人を超える経営者の方々にお会いして名刺交換をし、「こういうサービスをしているんです」と地道にアプローチを重ねました。

サービスの認知自体がないため、まずはサービスを体験して貰わないとわかっていただけない、というもどかしさがあります。ですが、それよりもまずは健康経営のあり方を知ってもらい、価値を感じていただいた上で導入に至る企業さんが増えていくのが一番いいやり方なのかな、と今は考えています。

――一人ひとりが健康にいきいき働けることが、会社の生産性アップに繋がるということをまずは理解してもらう必要がある。

はい。リラクゼーション事業とは別に「健康経営伴走サポート」のサービスを始めたのは、サービスや事業の説得力をあげるためでもあります。

いくら「生産性があがります」と言ったって、数字に出なければ納得していただけない。そこで、社内の健康経営の現状調査、社員様へのヒアリングなどを行い、生産性を数字的に見える化することで、年間でどれだけ生産性に変化があるかをお伝えし、その上で会社に合った施策をご提案していこうと。

――「みんなが健康でいられること」の価値への理解度は、まだまだ足りていない部分が大きいのですね。だからこそ、コンサルティングのサービスも生まれたと。

恐らく、どの業種にも当てはまりますが個人の健康状態はかなり売上に響いてくるんです。従業員の健康状態が悪いと、離職率も上がりますし、それによって人手不足で社員に負担がかかりさらに生産性は落ちていく。逆に、会社として健康を底上げしていくことで、どれだけの利益が出るかを理論的にわかっていただけたらと思っています。それに、「健康経営」の考え方が当たり前になれば、そこから派生して健康市場全体も活性化していくはずです。

「人のため」がモチベーション。自分自身も施術を行い、直接人に「癒し」と「気づき」を提供したい

――少しでも自分の身体の状態に意識がいくことで、さらに変化が生まれると。

そうなんです。たとえば、定期的に会社を訪問する「癒しラボ」のサービスを通じて、セラピストに身体を触られることで、「肩周りが凝っていたんだな」と気づき、自分の身体にもっと意識を向けるようになるはず。そして、肩が凝らないように「運動」というアクションを起こす。そうした行動変容のきっかけを作るのが、私たちの役割だと思っています。

――直接的な施術だけでなく、「気づき」を与えることが。

リラクゼーションの施術を受ける方は、どこかに不調を抱えています。相手の方の身体を触り、体の状態を知った上で、直接それを本人にお伝えできる。実は、私は最初は完全に経営に徹するつもりだったのですが、創業準備中にリラクゼーションについて学ぶうちに、「こんなに最高の仕事があるんだ」と感じたんです。自分でもやってみたくなり、数ヶ月間に渡って研修を受けて技術も習得しました。今でも自分自身で施術を行っています。

――経営者でありながら、自らセラピストとしても働いているのですね。

経営に徹することで、事業を大きくし、より多くの方にサービスを提供していくこともできるかもしれません。でも、それだけではどうしても間接的になってしまいます。私は、直接お客様に触れて話す機会も大事にしたいんです。

――公務員時代のお話からも、滝沢さんは「人のため」に何かをすることがモチベーションになっているように感じます。

たしかに。昔からそうなんです。人が喜んでくれたら嬉しいし、つらい人を見ているのがつらい。だから、とにかく人を助けるとか、その人のその後の人生にとってプラスになることをしてあげることが好きで。「好き」というよりは、それが当たり前だという感覚ですね。目の前の人が笑顔になるように自分がなにかしたい。「人のため」というのがいつも私の原動力になっていますね。

――「人のためになにかをしたい」という部分と、経営者としてのあり方で悩むことはありませんか?

私個人の性格としては、ボランティアとしてでも今の事業をやりたいくらいですが、世の中にそれを価値として提供し続けていくためには、持続可能な事業である必要があります。ですから、経営者としては単価を下げずにどこまでサービスを成長させていけるかに挑戦しているところです。

ネックレスの企業理念に共感して集まってくれたセラピストの仲間は本当に素晴らしい方々です。揉みほぐす技術が高いベテラン揃いで、コミュニケーション力もとても高い。私はそこにとても高い価値を感じています。しっかりとその価値を世の中に認めてもらい、うちで働く人たち自身も健康に、誇りを持って働けるような環境を保ち続けたいです。

「まだやり方を知らないだけ」と自分を奮い立たせて

――滝沢さんは、会社を経営する中で、想定外のことが起きた時やなかなか結果が出ない時はどうやって気持ちを持ち直していますか?

私は一度考え出すと悶々としてしまうタイプなので、一度頭をオフにして、映画を観たり海を見に行ったりしてリフレッシュするようにしています。そうすると、ちゃんと次の日から「やるしかない、頑張るか」と切り替えられます。

それから、悩みを相談できる人が身近にいることも大事です。創業当時は一人で行き詰まって悩むことが多かったですが、今ではありがたいことに相談できる仲間がいっぱいいます。起業家仲間もそうですし、地元で創業支援をされている信州スタートアップステーションの皆さん、コワーキングスペース「サザンガク」の方や、そこからさらに出会いが広がって、多方面に気軽に相談ができるようになりました。

――今後の目標や、挑戦してみたいことはありますか?

まずは長野県全域での「癒しラボ」のサービス拡大と、「TUKANOMA」の店舗拡大です。一人でも、私たちが関わることで元気になるお客様を増やしていきたいと考えています。

また、今後は心身を整えることがテーマのゆるやかなコミュニティを地域に作れたらと思っています。たとえば、「今月は〇〇について学ぼう」という対面での機会を提供したり、みなさんの暮らしをより健康で豊かにするきっかけ作りになるような体験や、気づきの機会を提供したいです。

ITやAIの技術が進んでいる世の中とは逆の考え方ですが、リラクゼーションはやっぱり人の手でやってこそだと思いますし、人にしか癒せない領域は変わらずにあるはずです。「コミュニティづくり」もそのための一つの方法で、今後も「人と接することで、人が変わる。いい状態になっていく」という価値を提供する方法を、自分たちなりに探っていきたいです。

――最後に、今創業を考えている方に向けたエールやメッセージをお願いします。

私がいつも自分に言い聞かせているのは「できないんじゃなくて、まだ方法を知らないだけ」という言葉です。起業をしたばかりの頃は、できないことだらけに感じます。でも、「方法を知らないだけ」と考え方を変えれば、気持ちが軽く前向きになります。その方法を知るために、ネット検索だけでなく支援機関を活用したり、誰かに相談したりするのも手です。

創業したばかりの頃は、「あの社長はできているのに」と、ほかの創業者や経営者の方と自分を比べてしまうことがありました。そんな時は、「私はまだ方法を知らないだけだ」と自分を奮い立たせていました。わかれば、きっとできる。できないことに直面した時、「どうやったらできるだろう?」と考えることが好きな人なら、きっと創業者になれるはずです。

・・・

株式会社ネックレスのホームページ

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2024.8.1

働く人の心身を癒して整える。「自分の経験」を突き詰めて、やるべきことを見つけた道のり【前編】先輩起業家インタビューvol.3

2024.8.1

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

「『起業する』という選択肢が自分の中に浮かんできた時は、一体自分に何ができるのかわかっていませんでした。少しずつ自分の思いを整理していく中で、『自分の経験をサービスに転換していくしかない』と事業の内容がかたちになってきたんです。」

そう語るのは、長野県松本市を拠点に、リラクゼーション事業や健康経営コンサルティングを行う株式会社ネックレスの代表取締役・滝沢直美(たきざわなおみ)さん。子育て環境を考えて長野県に移住した滝沢さんは、12年間にわたり市役所職員として働いてきました。「公務員の仕事は天職だった」と振り返るも、追突事故による後遺症からやむなく退職。自分のしたいこと、できることを見つめ直す中で浮かんできたのが「起業」という選択だったといいます。

インタビュー前編では、長野移住の背景と、公務員の仕事を離れ、自身の事業を始めるまでのストーリーを聞きました。

<お話を聞いた人>
株式会社ネックレス 代表取締役 滝沢直美社長(たきざわなおみ)さん
地方公務員として12年間勤務。追突事故による後遺症でデスクワークが困難になり退職。その後、教育サービス業および福祉事業所立ち上げ。2022年9月 株式会社ネックレス創業。
健康経営マイスター/健康経営アドバイザー/ボディセラピスト/傾聴療法士/カウンセラー

オフィスでリラクゼーション!? 一人ひとりの心身の健康に寄り添う

――まずは、株式会社ネックレスの事業内容について教えてください。

まず、第一弾事業として2023年に開始した「オフィスリラクゼーション癒しラボ」では、福利厚生の一環として企業や団体のオフィスや工場等へスタッフが出張し、リラクゼーションの施術を行います。一対一でコミュニケーションが取れることから、身体だけでなく心の健康にも寄り添うサービスとなっています。

また、個人のお客様向けにも、店舗で施術を行うリラクゼーションサロン「TUKANOMA」を松本市内で展開しています。

「TUKANOMA」では、地域の経済活動を支える働く人や、フリーランスの方、家事や育児を頑張る人が、心身を整えることで毎日健やかにいられるよう、もみほぐしやストレッチを中心とした施術で癒しの時間を提供しています。ストレスや自律神経の状態を把握できる医療機器も導入しており、健康に対する毎日の行動変容のきっかけをつくることも目的の一つです。

――どちらのサービスも、「働く人の健康」を大事にしているのですね。

はい。「健康経営」の考え方が事業の軸になっています。「健康経営」とは、従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することです。会社として健康投資を行うことは、働く人たちの活力・生産性アップなど、組織の活性化をもたらし、結果的に業績向上につながると期待されます。

ネックレスの「健康経営伴走サポート」では、社員の健康管理を経営的な視点で考え、会社の目標達成のための健康投資を効果的に実施していただくための伴走をします。社内の健康経営の現状調査、社員様へのヒアリングなどを行い、現状をしっかり把握・分析した上で、社員様が永く健康で働き続けられる環境づくりをお手伝いするほか、社内で健康セミナー等を提供しています。

「天職」だと感じていた公務員を、事故の後遺症によりやむなく退職

――滝沢さんは、創業前は長年公務員として働いていたとお聞きしました。当時から、「健康経営」を軸にした事業展開のアイデアがあったのでしょうか。創業に至るまでの道のりを教えてください。

いえ。公務員として働いていた当時は、自分が起業することになるとは思ってもいませんでした。まず、私は岐阜県で生まれ育ったのですが、長男が生まれた頃に子育て環境を考えて長野県に移住してきたんです。イメージしていた通り、暮らしやすさと自然環境のバランスがとても良く、長野が大好きになりました。

移住直後は、しばらく専業主婦をしていたのですが、3人の子供を育てる中で、いろいろな方々に本当にお世話になって。「子供たちのふるさとになるこの信州に恩返しがしたい」という思いから、臨時職員という形で市役所に就職したんです。約4年間パートとして勤めた後、「大好きな信州の地に骨を埋めよう」と決めて公務員試験を受けました。

――「信州への恩返し」のために公務員に。

正規職員として採用されてからは、観光、芸術文化振興、広報、シティプロモーション、市民の健康づくりなど、さまざまな業務に携わりました。大好きな長野のために働くことができ、公務員の仕事は、まさに天職だと思っていました。

ですが、市職員として働き始めて10年目のある日、追突事故に遭って頚椎を損傷したんです。長年希望していた部署に配属され、「やっとやりたかったことができる!」と意気込んでいたタイミングでの事故でした。当時は「この先の人生どうしよう」ととにかく不安でいっぱいでした。

――しばらくは治療をしながら公務員のお仕事を?

約3年間は、治療・休養と復帰を繰り返しながら働くことになりました。ありとあらゆる治療を試しましたが、パソコンに向かうと1〜2時間で慢性的な両手のしびれや耳鳴りが起きて、頭痛や吐き気、脂汗に襲われました。上司のデスクに決裁を貰いに行くだけでフラフラしてしまい、立っていられないような状況でした。

仕事が大好きなのに、思うように身体が動かず、以前のように働けない。「こんなはずじゃないのに、もっとできるはずなのに」と焦りながら、それでも毎日なんとか働いてお金を稼いで、家族を養っていかないといけなくて。

――身体の不調にくわえて、精神的なつらさも。

性格的に、自分のことよりも周りを優先してしまうタイプなので、どれだけしんどくてもニコニコと平気なふりをして仕事をしていましたね。なんとか頑張り続けましたが、3年目になる頃には、体調不良やストレスで頭が回らず、これまでできていた仕事ができなくなってしまったんです。これ以上はもう限界だと退職を決めました。

自分の気持ちを整理する中で、やるべきことが見えてきた

――そこから起業を考え始めたのですか?

公務員を辞めた時点で「起業」という選択肢は漠然と自分の中にありました。思うように働けないもどかしさから、「何かをやりたい」という思いがふつふつと自分の中に湧き上がってきていたんです。でも、公務員の働き方は「お金を稼ぐ」ことの対極にあるように思えて、「本当に自分にできるのか?」と不安でした。

――たしかに、「公務員」という働き方と起業には大きな違いがあるように感じますね。

「起業したい」という思いはあったものの、退職後しばらくは知人からのご縁で福祉事業所の立ち上げに関わらせてもらいました。障がいのある子供たちのために居場所を作る仕事はとてもやりがいがありました。ですが、自分がやるべきことは、ほかにあるんじゃないかという思いがずっと心の中にあって。

そんな時、たまたま起業に関するセミナーに参加し、ようやく「自分にもできるかもしれない」と起業が現実的になってきたんです。そこで、一番初めに思いついたのは「人が元気になるような商品を作って販売すること」でした。

――今のネックレスの事業内容とは異なりますね。

もともと「ものづくり」が好きだったんです。でも、商品を作るとなると最初に大きな投資が必要になる。さらに、それが売れる保証はない。私は3人の子供がいたので、そんな博打みたいなことはできませんでした。

「じゃあどうする?」と考えていたところ、セミナーの中で「まずは自分にできる形でお金を得つつ、基盤が整ったらそこからやりたいことを事業化していく方法もある」と教わったんです。そこで「今の私にできることって何だろう?」と考え直し、ようやく「今まで自分がしてきた経験があるじゃないか」と思えたんです。

――そこでやっと「起業」と「自分自身の経験」がつながったのですね。

事故に遭ったことにより、身体だけでなく心の調子も悪くなり、自分の生産性は最低まで落ちました。一人の生産性が落ちると、全体の生産性も落ちてしまう。それならば、経済活動をしている会社や団体にアプローチをして、働く人一人ひとりの生産性を上げることができれば自然と全体の生産性も上がるのではないか。そのためのサービスを作ろうと。

起業と聞くと、「〇〇が好きだから仕事にしたい」「私には◯◯がやりたい」と、一直線に進んでいくイメージをされる方が多いと思います。でも、私はそうではなかった。経験を重ねる中で、まずは自分の中にある「思い」の部分を整理して、自分に提供できる価値は何かをじっくり考えることで、自分の経験をサービスに転換しようとしたんです。

――思いを整理する過程は、ご自身でひたすら壁打ちをされたのでしょうか。それとも誰か相談相手はいましたか?

まずは自分一人で考えを整理しました。「自分に何ができるのか」「何がしたいのか」をどんどん紙に書き出していき、さらに、「社会には何が必要とされているのか」をネットや本で調べたり、周りの人にアンケートを取ったりしてヒアリングをし、情報を整理していきました。

視野が狭くなりすぎないよう、ある程度考えがまとまってきたら、仲間や友人たちにも相談をしました。その繰り返しで、だんだんアイディアが形になっていきました。そうしていく中で、働く人にダイレクトにアプローチできる「出張型のリラクゼーションサロン」を思いついたんです。

・・・

インタビュー後編では、未経験の分野での事業展開の仕方やサービスの広め方、ブレずに大切にしていること、今後の展望について聞きました。

株式会社ネックレスのホームページ


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2024.8.1

女性起業家を育む創業支援スクール2024 in 上田市 開催レポート(後編)

2024.8.1
イベント/セミナー/研修を探している

上田エリア

上田市創業支援プラットフォーム主催「女性のための創業スクール2024~ワタシが創る、未来。~」が5月21日(火)から、+519worklodgeにて全4回開催されました。本スクールは、2016年から毎年開催し、スクール・セミナーの受講生は延べ700名以上となっています。創業の基礎を学べる講座となっており、上田地域でご活躍中の講師の皆様に地元で起業をする上でのご自身の体験談を交えながら講義を展開していただきました。

今回は、 後半の2回分の講義をご紹介させていただきます。

第3回のテーマは「人材育成」
上田市商工会議所・中小企業診断士の今井裕氏による講義が行われました。上田商工会議所発行の冊子「創業計画書作成の手引き」を基に、創業を実現するために必要な心構えや事業におけるリスク管理、個人で起業する場合の資金などについて解説いただきました。コロナ後変化の時代における創業のあり方など、長年創業支援指導をされている今井様ならではの視点から受講者様へ具体的なアドバイスをいただきました。

第4回のテーマは「販路開拓」
甘味処 雪屋Conco 店主の徳武庄太郎氏に講義を行っていただきました。創業を楽しむことを基本に、ご自身の経験をもとにSNSやアプリ、チラシを使用した集客方法についての具体的な紹介がされました。グループワークでは、業種ごとに分かれ「販売戦略のアイデア出し」「自身の仕事をお客様に知ってもらうには」など、現在抱えている悩みを解決するための実践的なディスカッションと総まとめの発表が行われました。

各週で開催された講義内容は、実践的且つ参加者様同士の貴重な交流の場となりました。参加者の皆様には、今回のつながりを大切にしていただき今後も互いに刺激し合いながら成長していただけたらと思います。

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2024.8.1

女性起業家を育む創業支援スクール2024 in 上田市 開催レポート(前編)

主催:AREC
2024.8.1
とりあえず事業の相談がしたい

上田エリア

上田市創業支援プラットフォーム主催「女性のための創業スクール2024~ワタシが創る、未来。~」が5月21日(火)から、+519worklodgeにて全4回開催されました。本スクールは、2016年から毎年開催しています。創業の基礎を学べる講座となっており、上田地域でご活躍中の講師の皆様に地元で起業をする上でのご自身の体験談を交えながら講義を展開していただきました。

今回は、 前半の2回分の講義をご紹介させていただきます。
第1回のテーマは「経営」。講師は、秀プロデュース株式会社 代表取締役・ARECコーディネーターの滝沢一秀氏。経営理念と経営戦略の基本的な内容を分かりやすく解説いただきました。経営理念はビジネスの根幹を成す重要な要素であり、成功する企業には共通して明確な理念があるとの事。また、創業後事業を継続していくための日常的な心掛けやアドバイスが提示されました。さらに、生成AI ChatGPTを活用した事業計画草案の作成事例も共有されました。
第2回のテーマは「財務」。合同会社ハルナツの中澤ちあき氏による講義とランチ会・交流会が同時開催されました。講義では開業届の出し方やタイミング、税金や社会保険料の支払い方、青色申告のメリットとそのポイントなどについて学びました。小さく創業を始めたい方から大きく事業を広げたい方まで幅広いニーズに対応したお話をしていただき、法人化を考えた場合の動き方などについても解説いただきました。ランチ会・交流会では異業種の参加者様同士、リラックスした雰囲気のなかご自身の起業に対する闊達な意見交換が行われました。
次回は、後半の2回分の講義をご紹介させていただきます。

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2024.7.12

美味しく食べられる喜びをすべての人に。ヴィーガン&グルテンフリースイーツのパイオニア、「CocoChouChou」のスイーツができるまで【後編】先輩起業家インタビューvol.2

2024.7.12

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

長野県長野市を拠点にヴィーガン&グルテンフリーのスイーツブランド「CocoChouChou」を営む飯田紗央里さんは、東京を拠点にお菓子教室や商品開発から事業をスタートさせました。長野移住により、ブランド立ち上げという選択肢が一気に現実的になったといいます。

インタビュー後編では、長野移住後の事業展開の仕方や仲間の増やし方、これからの展望を聞きました。

<お話を聞いた人>
飯田紗央里さん
株式会社CocoChouChou(ココシュシュ)代表取締役。こどもの頃の趣味はお菓子作り。 IT企業に就職も、食べることが大好きで、人生を華やかに彩る“食”に携わる仕事を生涯の仕事にしたいと退職。ヴィーガンや食物アレルギーなど、食の制限の問題に気が付き、独学でヴィーガン&グルテンフリーのスイーツを研究し、2017年に「CocoChouChou」を開業。

未開拓の市場をコツコツと切り開く

――インタビュー前編では、「まだ世の中に無いもの」かつ「無いことでみんなが困っているもの」を作るべきなんじゃないかと事業の方向性が見えてきた背景をお聞きしました。しかし、当時まだ一般的でなかったヴィーガン・グルテンフリーに特化したスイーツを開発するのは大変だったのではないでしょうか。

当時、東京でさえまだ「ヴィーガン・グルテンフリー」を謳っているお菓子屋さんはほとんどなかったですし、ネットでレシピを調べて作ってみても、「なんだこれ、おいしくない!」ということがほとんど。「ヴィーガン・グルテンフリー」の市場は、まだ「美味しさ」の競争が起きておらず、「卵・乳・小麦を使ってない」というだけで重宝がられるような状況だったんです。

とにかく、今あるものを食べ比べたり、レシピを試作してみたりしては自分なりに改良を重ねて地道にレシピの開発を重ねていきました。

――カフェのメニュー開発から事業が始まったとのことでしたが、その頃には「いつか自分のブランドを立ち上げたい」という思いはあったのですか?

当時は、フリーランスのお菓子研究家的な立ち位置で、カフェのメニュー開発やコラボの仕事をしていこうと考えていました。最初にメニュー開発に携わったカフェはなかなかお店側の体制が整わず、オープンには至らなかったのですが、東京にいれば今後もこういった仕事は増えていくだろうという手応えがあったんです。

――そこから「CocoChouChou」が生まれたのはどうしてですか?

「CocoChouChou」を立ち上げたのは、長野に移住をしたことが大きいです。事業の方向性が見えてきた頃に私は一度結婚をしたのですが、夫が「長野に実家があるから地元に帰りたい」と言い始めて。長野なら東京より土地代や家賃等の諸経費も安いだろうから、「自分のブランドを持つ」という選択肢が一気に現実的になりました。

バレンタインに向けたスピード勝負! 移住と同時に物件を契約し開業へ

――では、移住後に物件を探して本格的にお店作りを?

移住するタイミングが2016年の冬ごろだったのですが、ちょうどその時に開発していたのが、「ヴィーガン生チョコレート」だったんです。

チョコレートを作っている以上、事業を始めるタイミングとして、バレンタインを逃すわけにはいきませんでした。そこで、移住する前から長野を訪れて内見をし、移住と同時に物件を契約しました。

――とにかくスピード勝負だったのですね。土地勘もない中で物件を探すのは大変ではなかったですか?

土地勘もないですし、長野市の商圏やお菓子業界の状況もわからなかったので、まずは通販事業を主軸に展開しようと決めていました。そこで、まずはとにかく自宅から通える距離で、お菓子を作れる広さがある場所を探しました。

移住後は、菓子製造業の免許が取れる最低限の工事をし、2017年の2月に「CocoChouChou」を開業し、早速商品の開発・製造をスタートさせました。

――はじめから「長野で創業する」と準備や下調べをしていたわけではなく、ご縁とタイミングが重なってのはじまりだったのですね。

実は、長野に移住してから、すぐに離婚をしたんです。でも、既にお店は押さえてありましたし、元からそこまで東京に執着があったわけではないので、東京に帰るという選択肢はありませんでした。

「ここでやっていこう」と軽やかな気持ちで長野に残ったら、幸いにも最初のバレンタインで、通信販売がヒットし、事業も軌道に乗ってきた。そこからコツコツと商品を増やし、ブランドの認知を広げてきました。

――2021年には拠点を移し実店舗をオープンしていますが、通信販売をメインに展開していたところから、直接お客さんの反応を見られるようになった手応えはどうですか?

 まちなかに製造拠点と販売場所を当時に持てるというのは、地方ならではの贅沢な強みだと思います。お客様との接点が持てるというのもやはりうれしいですね。

誰でも、短時間でも活躍できるような製造工程を工夫

――長野での人材採用についてもお聞きしたいです。

販売スタッフ・製造スタッフに関しては、店舗の窓に貼ったチラシや、Instagramのスタッフ募集の投稿を見て連絡くださった方を採用してきました。ありがたいことに、これまで有料の求人広告等を出したことはありません。

また、「CocoChouChou」では、お菓子作りが未経験の方や、事情により短時間しかシフトに入れない方でも、長く働けるようなメニュー開発に力を入れています。

――未経験でもOKとしているのはどうしてですか?

お菓子作りを「職人の仕事」にしてしまうと、1人辞めた時にまた次に採用するのがすごく大変になります。お菓子業界はただでさえ人手不足になりがちだし、長時間労働になりがちな部分があるので、従来とは違うスタイルの働き方を確立できないかと模索しています。

「CocoChouChou」のスイーツは、レシピや製造工程に工夫をしており、お菓子作り未経験の方はもちろん、それぞれに事情がある方が短時間だけシフトに入っても、ちゃんと活躍できるようにしています。

子供が急に熱を出した、親の介護で1ヶ月お休みをしないといけない、自分自身の体調不良など、どんな事情があっても、環境さえ整っていればみんなが働きやすくなる。常に安定的に生産していける環境づくりを目指しています。

――誰もが「美味しく食べられる」スイーツは、誰もが働きやすい環境で作られているのですね。

また、「未経験OK」にすることで、今までお菓子をつくったことがない人が、仕事を通じて新しい世界に触れられるきっかけになればいいなという思いもあります。

マーケティングの領域になると、ちょっと毛色が変わってくるので、副業人材に特化した求人サイトの「YOSOMON」や、「NAGA KNOCK!」で募集を出し、県外の方と業務提携をしています。

――必要に応じて様々な採用方法を組み合わせているのですね。開業後、長野での事業展開について県や市からのサポートは受けましたか?

開業時は特にサポートは受けませんでしたが、開業3年目に当たる年に、信州スタートアップステーションの「信州アクセラレーションプログラム」に第二期生として採択されました。

「信州アクセラレーションプログラム」では、自分と合いそうな経営者の方や、自分よりもう少し高いフェーズにいる経営者の方々と定期的にマッチングしていただき、1〜2時間ほどスポット的に事業の相談をさせていただきました。

会社経営の規模は違えど、経営者同士みんな持っている悩みは似ていると思います。資金繰りのノウハウから、小さな悩み事まで、ざっくばらんに話せる相手が身近にできたのはとても心強かったです。プログラムの期間は3ヶ月間でしたが、当時の同期や、経営者の方々とは今でも仲良くしています。

※1「信州アクセラレーションプログラム」とは……信州スタートアップステーションが取り組む、創業後間もない企業に対する短期間の集中的伴走支援プログラム。

想定外な出来事を、いかに好転させ続けるか

――現在は、飯田さんご自身も「先輩起業家」として信州大学での学生向けの講演や、セミナーに登壇されていますね。未来の創業者の方々には、いつもどんなアドバイスをされていますか?

「あまり計画立てすぎず、まず動き出してほしい」と伝えています。もちろん、最低限生き残るための計画を立てることは大切ですが、事業を進める上で予想通りに物事が進むということはほとんどありません。それよりも、走りながら考えて軌道修正していける人の方が創業に向いているんじゃないかなと感じます。

――飯田さんが事業を進めてきた中で、たとえばどんな想定外の出来事が起こりましたか?

たとえば、コロナが流行することは誰も予想ができなかったですよね。お菓子業界で言えば、原材料がここまで高騰することも数年前は誰も思っていなかった。もっと個人的なことだと、大規模な売上を見込んで出店した東京の催事で、想定していた売上に全く届かず大ダメージを受けたこともありました。

日々がそういうことの繰り返しだから、「100%こうなる」なんて未来はあり得ません。想定外のことが起きた時に、どうやって挽回して好転させるかを常に考える必要があります。

――何が起きてもへこたれず、次へ進める人であること。

そうそう。気持ちを入れ替えて、「じゃあ次!」と進める人なら、きっと創業に向いています。私の場合はむしろ、常に先が見えず、激しく変化する日々の繰り返しだからこそ、飽きずに事業を続けられている気がします。

――最後に、今後の展望や目標を教えてください。

今の目標は、「CocoChouChou」を「みんなが当たり前に食べている人気ブランド」に育てることです。

ヴィーガンやグルテンフリーというのは、当事者ではない人に「私には関係ない」と思われてしまうと思うんです。だからこそ、「わぁ、なにこれ?かわいい!」「このお菓子、すごく美味しい。どうやって作られているんだろう?」と、驚きやわくわくからたくさんの人の目に触れ、みんなに手に取ってもらうことで、市場の規模をどんどん大きくしていきたい。これからも、「食に制限がある人が細々と食べるもの」ではなく、ポジティブなメッセージのあるブランドであり続けたいです。

・CoCoChouChouのホームページ

・CoCoChouChouのオンラインショップ

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2024.7.12

美味しく食べられる喜びをすべての人に。ヴィーガン&グルテンフリースイーツのパイオニア、「CocoChouChou」のスイーツができるまで【前編】先輩起業家インタビューvol.2

2024.7.12

起業する。会社を立ち上げる。「創業」と一口にいっても、そのあり方は人それぞれ。同じ選択や道筋は一つとしてありません。魅力的な先輩起業家が数多く活躍している長野県。SHINKIの先輩起業家インタビューでは、創業者の思いやビジョン、創業の体験談や、本音を掘り下げます。

「会社員時代は、生活は安定していましたし、会社も仕事も大好きでした。はたから見たら、とても順調なキャリアだったかもしれません。でも、ふと『私は一生こんなふうにして働いていくのかな?』と、立ち止まったんです。」

そう語るのは、「すべての人に『美味しく食べられる』喜びを」をテーマに、長野県長野市を拠点にヴィーガン&グルテンフリーのスイーツブランド「CocoChouChou(ココシュシュ)」を営む飯田紗央里(いいださおり)さん。

会社員を退職後、お菓子作り教室・商品開発からスイーツ事業をスタートした飯田さん。通信販売から始まった「CoCoChouChou」は、現在は長野駅前の実店舗を構えるほか、全国各地のイベントや催事にも出店し、多くのファンを持つ人気ブランドです。

インタビュー前編では、「CocoChouChou」のこだわりと、会社員生活を手放し自分の事業を始めるまでのストーリーを聞きました。

<お話を聞いた人>
飯田紗央里さん
株式会社CocoChouChou代表取締役。こどもの頃の趣味はお菓子作り。 IT企業に就職も、食べることが大好きで、人生を華やかに彩る“食”に携わる仕事を生涯の仕事にしたいと退職。ヴィーガンや食物アレルギーなど、食の制限の問題に気が付き、独学でヴィーガン&グルテンフリーのスイーツを研究し、2017年に「CocoChouChou」を開業。

誰もが笑顔で美味しく食べられるスイーツブランドを目指して

――まずは、「CocoChouChou」が大切にしているお菓子づくりのあり方やブランドにかける思いを教えてください。

「CocoChouChou」のお菓子はすべて、卵・乳製品・小麦・白砂糖不使用のヴィーガン&グルテンフリーです。

「お菓子は体や美容によくない」と我慢している方や、食物アレルギーや健康の事情などで食の制限がある方、菜食主義のヴィーガン・ベジタリアンの方など、誰もが「自分だけがみんなと同じ美味しいお菓子を食べられない」という寂しい気持ちを抱くことなく、笑顔で美味しく食べられるスイーツを作っています。

――健康に配慮したお菓子や、アレルギー対応のお菓子は味気ないイメージがあったのですが、「CocoChouChou」のスイーツはとても華やかで見ているだけでもときめきますね。

まさに、心が華やぐようなおしゃれでかわいいスイーツを作ることも「CocoChouChou」のこだわりです。「これしか食べられないから仕方なく」ではなく、あらゆる食の制限をポジティブに変換して、「美味しいから」「かわいいから」と「CocoChouChou」を選んでいただけるように商品開発を行っています。

――おいしさのこだわりについて教えてください。

白砂糖は使わず、甘みはミネラルたっぷりのメープルシロップやきび砂糖、デーツなどのドライフルーツで、”くどくない”甘みを出しています。また、コクを出すために、良質な脂肪分であるカシューナッツやココナッツオイル、カカオバターなどを使用し、米粉にナッツの粉を加えるなど工夫を凝らしています。

――「CocoChouChou」は、現在どのように展開していますか?

「CocoChouChou」は、通信販売から事業をスタートしました。公式の通信販売サイトのほか、楽天市場、Cake.jpからお取り寄せいただけます。また、 新宿伊勢丹やながの東急百貨店、渋谷ヒカリエなど全国の百貨店・セレクトショップでの催事販売や、マルシェやイベント等の出展も行っています。2017年には、長野市内で実店舗を構えました。

――スイーツの中でも、「ヴィーガン・グルテンフリー」に注目した商品開発を進めてきたのはどうしてですか?

これは創業から数年が経った今でも思うことなのですが、魅力的な商品やスイーツは既に世の中にびっくりするぐらい溢れています。有名なパティスリーで修行した人や、フランスで修行した人たちが次から次へと新商品を出している中で、自分がわざわざ既存のお菓子を作ることには意味が見出せませんでした。

それよりも、まだ世の中に無いもの、それも、「無くてみんなが困っているもの」を作るべきなんじゃないか、と考えて、「ヴィーガン・グルテンフリー」のスイーツブランドを立ち上げることを決めました。

会社員としての順調なキャリアアップがふと怖くなった

――飯田さんは、もともとは会社員として働いていたとお聞きしましたが、「いつかこんなスイーツブランドを立ち上げたい」という思いがあったのでしょうか。

子どもの頃からお菓子づくりが好きで、学生の頃はパティスリーやお菓子作り研究家のもとでアルバイトをしており、「いつかは食べ物に関わる仕事に就きたいな」とは漠然と考えていました。

ですが、会社員として働いていた時も、辞めた当時も、何をするかは一切決まっていませんでした。「会社員生活を断念して、大好きなお菓子の道に戻ってきた」みたいな感覚はまるでないんです。

――会社員の頃はどんなお仕事をされていたのですか?

都内のインターネット銀行に就職し、約7年間ネットマーケティングの業務に携わっていました。会社も仕事も好きで、今でも働いていてよかったと思っています。それでも会社を辞めたのは、「このままキャリアも収入も上がっていったら、もう抜けられなくなる」と怖くなったからでした。

――「怖くなった」というのはどういうことですか?

生活は安定しているし、仕事もやりがいがあって、収入も上がっていく。はたから見たら、会社員としてはとても順調だったかもしれません。でも、忙しい毎日の中で「私は一生こんなふうにして働いていくのかな?」と、不安になったんです。収入もある程度伸びてきていたので、これ以上の金額をもらえるようになったら、きっと手放すのが怖くなってしまうだろうと。

――会社の中で順調にキャリアを積んでいたからこそ、立ち止まりたくなったと。

「手放すなら今だ!」と強く思ったのを覚えています。そこで、先のことも考えずに見切り発車で会社を辞めました。そこから何をするかはまったく決まっていませんでしたが、「まずは辞めないと始まらない」という気持ちでしたね。

――立ち止まることで、一度自分自身をリセットしたのですね。

会社員時代は本当に毎日一生懸命仕事をしていたので、プライベートの充実を優先してこなかったんです。辞めてからの約一年は、貯金を切り崩しながらのんびりと暮らし、今後自分がどのように生きたいのか考えました。

それでも、結局明確な答えは出なかったんです。ただ、「会社員に戻ろう」とは思えなかった。そこで、自由と責任が伴う「起業」という選択肢が浮かびました。

――「自由」と「責任」が伴う働き方が、飯田さんにとって大事なポイントだったのですね。

会社員時代も、より責任の重い仕事、決定権のある仕事をさせてもらえるとやり甲斐を感じていました。全ての決定権と責任を担う起業は、自分に合っているのではないかと思い至ったんです。

「好きなことを仕事にする」というより、働き方の選択肢の1つとして「起業」という働き方を選び、その中で、漠然と好きな食の仕事についた、という流れです。

まずは小さなことから。コツコツと発信してチャンスを掴む

――もともとは会社員をしていたところから、どうやってお菓子の事業を始めていったのですか?

開業資金を貯めていたわけではなかったので、先行投資が必要な店舗経営は選択肢にはありませんでした。幸い、大学時代にお菓子業界に関わっていた経験があったので、プロには全く敵わないけれど、お菓子作りの基礎知識とスキルはあった。そこで、なるべくお金をかけずに小さく始められる展開の仕方を考えて、お菓子教室と商品開発から小さく事業を始めました。

――なるほど、商品を作って売るのではなく、スキルやアイディアを提供するところからスタートしたと。

前職でマーケティングの部署にいたこともあり、メディア系に強い人たちとのつながりも多かったので、「みんなに話したらうまくきっかけを掴めるんじゃないか」と感じたのも大きかったです。

タレントさんを起用してるような事業部の方もいたので、なにか少しでもチャンスが舞い込めば、という気持ちで、お菓子を作っては会社に差し入れに行き、「お菓子の事業を始めようとしているんです」と挨拶して回りました。

――まだかたちになる前の段階から、コツコツと発信をしていったのですね。

最初はとにかく営業活動をしていましたね。まだ会社名もなにも決まっていない段階で、とにかく「お菓子教室を始めるから、習いたい人いるかな?」「商品開発、メニュー開発の仕事を探してる人いないかな?」と呼びかけながら自分の作ったお菓子を配り歩いていました。そうしたら、前職の関係者の方がカフェの商品開発の仕事を持ってきてくれたんです。

――早速チャンスが! 飯田さんが会社員時代にお仕事を一生懸命やっていたからこそ、退職後も応援してもらえたように感じます。

本当にありがたかったですね。そこでご紹介いただいたのが、東京の麻生十番で新規オープンする予定のカフェだったんです。麻生十番には大使館がいくつもあり、海外の方も多く暮らしているエリアなので、ヴィーガンやグルテンフリーに対する考え方が日本の中でも早くから根づいている地域でした。

実際にそのカフェに採用された店員さんの中にも、ヴィーガンの方がいて。そこで初めて、「そうか、卵・乳・小麦を使ってしまうと、ヴィーガンやグルテンフリーを選ぶ人たちは食べられないんだ」と気がついたんです。その頃、ちょうど食品アレルギーの問題も注目されていた頃だったので、そこからヴィーガン・グルテンフリーのお菓子を開発し始めました。

――たまたま掴んだ仕事のチャンスが、ヴィーガン・グルテンフリーの世界に踏み込むきっかけになったのですね。

そうなんです。メニュー開発を進める中で、感度を上げて周りの声を聞いていくと、「みんなと同じお菓子が食べられない」「楽しく美味しいお菓子が食べたい」という声が聞こえてきて。

ただ「美味しいお菓子」を作るのではなく、「悩んでいる人たちの課題を美味しいお菓子で解決する」方がいいんじゃないか、と自分の進むべき方向性が見えてきました。

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インタビュー後編では、長野移住と、事業をかたちにしていくまでの過程や仲間の増やし方、これからの展望について聞きました。

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